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自然の「色」と「織り」、志村ふくみの世界に思いをはせて

昔の手帖をひもとき、入門したての頃へ

玉川奈々福 浪曲師

昔の手帖からよみがえる、入門したての頃

 とある必要があり、昔の手帖をめくっている。

 1996年。入門の翌年。なんだか、穴に滑り落ちてしまったみたいに浪曲の世界に入ってしまって、自分の身に起こっていることがわからないまま、おろおろしていた。

 会社員と、浪曲三味線弾き(の卵)の二足の草鞋。

 入門したのに、浪曲協会主催で毎週開かれていた、一般向けの浪曲三味線教室にもまだ通いつづけており、師匠の家にも稽古に通い、週末や、夜に師匠や姉さんたちの仕事があるときには、同行して後見をしたり、三味線弾かせてもらったりしていた。

 浪曲界は、落語ほどきちんとした修行のシステムが確立されていない。

 というか、曲師の新弟子が入るなんて、何十年ぶりだったのか。

 不安定な立場。不安な気持ち。

 定席木馬亭期間中の土曜日の夕方は「浪曲懇話会」に出席。

木馬亭での芝清之さん=1995年、東京都台東区浅草
 いつも木馬亭の木戸で、茶色いニットを着てパイプをふかしていた芝清之さん。木馬亭のお席亭・根岸京子大女将以上に、木馬亭の「顔」になっていた浪曲研究家の芝さんが、木馬亭の常連のお客様や、若手浪曲師たちのために開いてくれていた勉強会。

 江戸末期このかた、まだ「浪花節」になる前からの浪曲の歴史や、さまざまな名人たちのエピソード、演題の由来など、数々の浪曲研究書をものされた芝さんの該博な知識を惜しみなく私たちに差出してくださりながら、古い音源を聞かせてくれた。

 聞かせてもらった音源は、古すぎて魅力の全然わからないものもあったが、その中で、関東節の名人・木村八重子師匠の三味線の音に、私は強烈に惹かれた。一音一音が、つやつやに磨き上げられた玉のよう。ほれぼれするような美しい響きだった。芝さんから音をもらって、聞きこんだ。

 定席期間中の、日曜日の朝は、「ろうきょく日曜学校」。

 これもやはり芝さんが当時の、まだ入門数年の若手たちに、定席の幕が開くまえの、朝の時間の木馬亭をつかって勉強の場を設けてくださった企画。現会長の東家三楽(当時は富士路子)姉をはじめ、十人ほどの若手浪曲師と、数人の若手曲師が、交代で朝、二席ずつ務めていた。

 指導曲師は、松村花子師匠。

 なつかしのTVバラエティ「オレたちひょうきん族」で、島崎俊郎さんのアダモちゃん演じる浪曲の、曲師を務めておられた師匠だ。

 日曜学校は、まず超絶きれい好きの花子師匠の指導によるお掃除からはじまる。

 楽屋にある湯飲みを全部洗い直し、楽屋の畳を、固く絞った雑巾で拭き、舞台を雑巾がけしてへとへとになって、それから三味線を立て(三味線は三つ折りになっており、組み立てる仕組みになっている。つないで、糸を張って調弦するまでを「立てる」もしくは「つなぐ」と言います)、着物を着て、演者の声出しをして、舞台の幕を開ける。

 昼間の社会人的な感覚からは、大きく隔たった世界ではあった。

 そんな浪曲生活をしながらも、専業芸人になるつもりもなく食べていけるわけでもなく、かたわら私は出版社で編集の仕事もつづけていた。

志村ふくみ先生に感じた「実」の世界

 筑摩書房に入ったのは、1990年。大学を出てから三軒目の出版社だった。

 入社当初。配属された部署の先輩に、「あなたはどんな本が作りたいの?」と聞かれた。
はっきり覚えている。

 「志村ふくみ先生の本がつくりたいんです」と私は答えた。

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