戦争責任にどれだけ自覚的であったのか
光吉は大学卒業後、鉄道省の外局で観光立国を目指して作られた国際観光局に入局する。そして5年後、同局刊行のグラフ誌「Travel in Japan」の主幹に就任。原弘を同誌の表紙デザインに起用し、彼の影響によりロシアの絵本を収集することになる。当時のロシア絵本は、ロシア・アヴァンギャルドの影響などもあり、斬新でデザイン的にも優れていた。これがグラフ誌編集や後の卓越した海外絵本の選択眼にも活かされたのだろう。光吉は国内屈指のロシア絵本コレクターともなる。
原弘は、写真専門誌「光画」のメンバーで、ここには木村伊兵衛、伊奈信男、名取洋之助など、後にビジュアル・プロパガンダ的なグラフ誌「NIPPON」や「FRONT」を担う面々が集まっていた。

名取洋之助
「NIPPON」は、名取が立ち上げた日本工房から1934年に創刊され、木村や伊奈のほか、原弘、岡田桑三が参加するが、工房は1年で分裂し、木村以下は中央工房を起こした後に東方社と社名を変えて1942年に「FRONT」を創刊。
1940年、光吉が台本を手掛けた、皇紀2600年奉祝の舞踊「日本」は、皇国史観の賛美であり、主幹として関わった「Travel in Japan」も、「NIPPON」や「FRONT」と同様に、海外に向けた国威発揚と戦時下のナショナリズムの高揚を目指したことに違いはない。戦時下のビジュアル・プロパガンダは、国家宣伝のためにと優遇されていたからなのか、写真技術はもちろん、デザイン感覚や表現テクニックの素晴らしさを認めないわけにはいかない。

皇紀2600年を祝って繰り出した人たちでにぎわう東京・銀座=1940年11月11日
同時に、戦争に加担した文学者の戦争責任は様々に追及されたが、写真家やデザイナーは、自らの戦争責任についてどれだけ自覚的であったのか、本書を読みながら改めて考えさせられた。
「NIPPON」や「FRONT」は日本の文化や産業を海外に紹介するグラフ誌だが、軍部と結託して大東亜共栄圏構想を宣伝し侵略を正当化するプロパガンダの担い手でもあった。そこに名取や木村、土門拳の写真ルポや「NIPPON」に参加した亀倉雄策のデザインが加わる。
戦後、亀倉は64年の東京オリンピックのポスターで話題を呼び、現代日本のトップデザイナーとして活躍する。名取や土門や木村は、名取洋之助写真賞、土門拳賞、木村伊兵衛写真賞と、その名を冠した賞が設定されるほど顕彰されている。
画家の藤田嗣治や詩人の高村光太郎が厳しく戦争責任を問われたのに比べ、その違いに違和感を覚えざるを得ない。彼らと緊密に関わり、国策に従った光吉も同様なのだが、彼は日米開戦の翌年あたりから子どもの本に活躍の場を移しているように、本書からは読み取れる。それは一種のカモフラージュだったのだろうか? とはいえ、子どもの本もまた、この頃から過剰なほど戦意高揚と戦争賛美の絵本などを大量に出版することになるのだが、光吉が手掛けたのは海外の絵本の翻訳であった。
絵本の翻訳『支那の墨』、『フタゴノ象ノ子』(のちに『まいごのふたご』)、『花と牛』(のちに『はなのすきなうし』)、『文楽』の4冊を筑摩書房から出版した1942年は、光吉にとって画期的な年となった。43年には、美術誌「生活美術(絵本特輯)」9月号で「絵本の世界」を寄稿し、これまでコレクションしてきた海外の絵本を多くの図版と共に紹介する。その中にはディズニーの『ピノキオ』や、バンナーマンの『ちびくろ・さんぼ』など、戦後翻訳出版されて人気になる絵本がたくさんあったと著者は記している。