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つかこうへいが語らなかった「事件」

俳優、沖雅也をめぐる出来事〈上〉

長谷川康夫 演出家・脚本家

1983年、つかに衝撃を与えた出来事

 気にかけていた読者もいないだろうが、本業に追われしばらく中断していた連載を今回から再開する。

 劇作家「つかこうへい」の誕生から『劇団つかこうへい事務所』解散までを辿った拙著『つかこうへい正伝 1968-1982』以降のつかの姿を、思い出すままに綴ってみようと、この連載を始めたのが去年の7月。つかが演劇界に復帰する1989年あたりまでなら、何回分かは埋められるだろうから、2、3カ月でケリをつけるつもりでいた。

『つかこうへい正伝 1968ー1982』(新潮文庫)
 それがノタノタ書き進めるうち、1年をはるかに超えても、話は劇団解散翌年の83年で停滞したままだ。我ながら呆れている。なんとか進行のスピードを上げ、さっさと当初の予定をクリアすべく、気持ちを新たに取り組みたい。

 などと書きながら、今回もまた83年の話になる。

 沖雅也の「事件」である。

 実はこれを取り上げるかどうかかなり迷った。

 当時なら何ごともなく使えた〝表現〟が、今ではかなり難しい部分もあるし、僕なりの考えが、果たしてつかの思いを正しく伝えるものになるかどうか、どこか自信がないからだ。

 しかしながら、ほぼ半年少々に過ぎなかった、沖雅也、そして日景忠男との付き合いと、何よりその結末が、つかの人生の中で重い1ページとなったことだけは間違いない。

 それはこの件に関して、つかが何かを語ったという記憶が僕には全くないからだ。

 普通なら自分の身の回りに起きたどんなことでも、逆説的な揶揄や皮肉で辛辣に笑い飛ばしてみせる(それが憚られるような場合ならなおさら)のが、つかこうへいである。

 なのに、その事件によって今までにない形で「つかこうへい」の名がマスコミを賑わせたあと、つかはどんな席でも沖雅也に関して口にすることは一切なかった。つまりそれがつかにとって、いかに衝撃を与え、心揺るがす出来事だったか……。この時代のつかを語る時、やはり避けては通れない事柄なのだ。

早朝の電話に、声を失った

 1983年6月28日。早朝の電話は劇団仲間の女優、岡本麗からだった。

 「沖さんが自殺した」

 すぐには声が出なかった。

 新宿京王プラザホテル47階のバルコニーから飛び降りたと、岡本は慌ただしく情報だけを伝え、電話を切った。僕は彼女に言われるがままに、テレビをつけた。各局のワイドショーが一斉にそのニュースを伝えていたように思う。

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