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中村吉右衛門の歌舞伎は普遍の記憶を呼び覚ました

古典芸能の意味を体現、失われたものの大きさを悲しむ

天野道映 演劇評論家

父性の温かさを持った名優

 二代目中村吉右衛門の訃報に接して、もう父親には会えないと、まずそのことを思った。

 美男の役者ならば他にいるが、父性の温かさに抱かれているという感触は、この人で終わりを告げることになるかもしれない。

 歌舞伎には「子を失う」狂言が、しかも自分の手にかける話が多い。

 『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の源氏の侍・熊谷次郎直実は、主君義経の暗黙の命令を受けて、敵方の平家の公達・敦盛の身代わりに我が子小次郎の首を討つ。敦盛は実は後白河法皇の落胤だからである。

『一谷嫩軍記 熊谷陣屋』で熊谷直実を演じる中村吉右衛門=2013年4月、歌舞伎座、©松竹
 『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の松王丸は、親である白太夫の主人・菅丞相(菅原道真)の恩に報いるために、自分は丞相を追い落とした藤原時平に仕える身でいながら、息子の小太郎を丞相の一子・菅秀才の身代わりに立てる。

 原作の浄瑠璃が意外な出来事の連鎖と、その謎解きを常套手段としているのを考慮に入れても、これらの作品がかくも人気狂言になっているのは何故か。

 実際に行われた「子殺し」の記憶が刻まれているからだと思う。

 民俗学の創始者柳田国男が1887年(明治20)、物なりの豊かな生まれ故郷兵庫県から茨城県の長兄の家に身を寄せた時、どの家にも男児と女児の2人ずつしかいないことから、この地方に「人工妊娠中絶の方式ではなく、もっと露骨な方式が採られて来た」ことを悟る(『故郷七十年』)。

 我が子の命を惜しまぬ者はいない。ましてそれを自身の手にかける親の苦しみはいかばかりであろうか。

 第二次大戦までは、これらの芝居も現実味があった。観客は主人公に感情移入して泣き、段切の美しい音楽とテクストに慰められる。何よりも子は大義のために死んでいった。間引きも同じことである。それは共同体の食糧事情を守るための辛い尊い犠牲だった。

 今はそういう日々は遠くなり、むしろ少子高齢化の時代になった。父親の苦悩はリアルなことではなく、物語の中に後退していったかに見える。

 にもかかわらず、いったん吉右衛門が登場すると、父親の声がかくも懐かしく響くのは何故か。

中村吉右衛門

中村吉右衛門
 1944年、八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)の次男として生まれ、のちに母方の祖父、初代中村吉右衛門の養子となる。

 48年に中村萬之助を名乗って初舞台、 66年に二代目中村吉右衛門を襲名。人物の内面を深く表現し、重厚な時代物で多くの当たり役を持ち、歌舞伎界を代表する立役の一人として活躍した。松貫四(まつ・かんし)の筆名で歌舞伎脚本も手掛け、主演したテレビドラマ「鬼平犯科帳」シリーズでも人気を集めた。2002年から日本芸術院会員、11年に人間国宝、17年に文化功労者に選ばれた。

 21年3月に心臓発作で救急搬送され入院していたが、11月28日、心不全で死去した。当代の松本白鸚は兄、松本幸四郎は甥、尾上菊之助は四女の夫。

「父親」の声が懐かしく響く理由は

 写真家の北井一夫の言葉がヒントを与えてくれる。

 彼が自分の写真の原点としているのは、幼い日に父親の帰りを都電の停留所で空しく待ちわびる自分自身の姿である。

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