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[神保町の匠]2021年の本 ベスト1

『令和元年のテロリズム』、『アスベストス』、『安いニッポン』……

神保町の匠

*本や出版界の話題をとりあげるコーナー「神保町の匠」の筆者陣による、2021年「私のベスト1」を紹介します。

井上威朗(編集者)
磯部涼『令和元年のテロリズム』(新潮社)

磯部涼 『令和元年のテロリズム』(新潮社)拡大磯部涼 『令和元年のテロリズム』(新潮社)
 2019年(令和元年)に日本社会の話題を独占し、2021年には風化してしまった3つの殺人事件と1つの交通事故を掘り下げ、タイトルにふさわしく練り上げた力作です。戦場とかを舞台にしない最近のノンフィクションに、先輩世代から「安全地帯から書いている」という批判を聞くことがあります。ですが、本書でいう「テロリズム」の前には安全地帯など存在しないわけで、凄惨な事件を自分ごととして記録する、著者の誠実な営みは評価されるべきだと思うのです。

 さらに本書は、子殺しや無差別殺人をめぐる昭和時代の論考も丁寧に分析し、論客たちが自説を語るのに都合よく事件を利用してきた歴史も暴きます。精神疾患が悪化して親に殺された人物の残したTwitterアカウントには、好き勝手きわまるコメントが大量に書き込まれました。昭和のお偉い先生がつけた先鞭に令和のネット民が乗っかった地獄絵図ともいえる構図を鮮やかに示したのも、本書の後世に残した功績だと思います。

大槻慎二(編集者、田畑書店社主)
佐伯一麦『アスベストス』(文藝春秋)

 この連作短篇集を読みながら、何度巻末の初出一覧を見返したかわからない。「あとがき」にもあるように、全4篇を完成させるまでに13年の月日がかかっている。それを著者は、アスベスト禍の潜伏期の長さに喩えているが、これらの小説の文章ひとつひとつが、人物や事象を豊かに浮かび上がらせる「具象」でもあり、社会全体の病を示唆する「抽象」にもなっている。しかも作家はまさに、その病を身裡に抱える本人だということが、「社会と私」という文学上のテーマを根底から考えさせられる。

 この13年の間に日本に何があったか。特に3篇目と最終篇の間には10年の歳月が横たわっており、その間、著者は東日本大震災をもろに経験しているが、そういう「大きな災害」と同時並行的に「細かい不幸」が人々の生活に目に見えない形で浸透していく様が絶妙な筆致で描かれる。年末に飛び込んできた「今年最高の収穫」だった。

佐伯一麦拡大佐伯一麦

駒井稔(編集者)
中藤玲『安いニッポン──「価格」が示す停滞』(日経プレミアシリーズ)

 やがてパンデミックが終焉した時に、最大の問題となるのは20年以上日本が苦しんでいるデフレの克服だと思います。本書では著者が新聞記者として現場を踏みながら、わが国が直面する深刻な現状を極めて鮮明に描いています。

 「安いニッポン」の例として挙げられている、ディズニーランドの入場料、回転ずし、100均などが、世界で一番の低価格という事実には圧倒されます。非正規社員が4割を超え、物価や賃金が上がらないのは終身雇用、年功序列、企業内組合といった戦後日本を成功に導いたシステムそのものが原因だとよく指摘されますが、日本人は勤勉だと信じていた人たちは、労働生産性が主要先進国で最下位だと知って驚くのではないでしょうか。

 盛んに喧伝される「新しい資本主義」に多くの国民は良き変化を期待しつつも、半ば諦めているようにも思えます。それではどうしたらよいのか。本書はそれを考えるための数々のヒントを与えてくれる好著です。

今野哲男(編集者・ライター)
神山睦美『「還って来た者」の言葉──コロナ禍のなかでいかに生きるか』(幻戯書房)

 著者は、末尾に置いた「覚書」でこう云う。「……私の書くものは、総じて難解といわれてきました。それは思考が高度なのではなく、自分でもまだ思考を整理しきれていないからではないかと思います」と……。持続することにかけて代償を求めず、ただ自発的に「考える」ことに身を任せてきたと思しい著者が、文芸批評40年の節目にまとめた評論集。

 「文芸批評の世界に導いてく」れた吉本隆明(『最後の親鸞』)と、「文芸批評家としてライバルであり続け」た加藤典洋(『9条入門』)を中心に、多様な論が並ぶ。「(過去の思考を整理するために)できるだけ話しているような文章に書き替え」「全編をですます調に統一」した努力によって、より鮮明に見える著者の寂(しず)かな直感の力と、実感に下支えされた「思想・哲学的な実存」の姿が貴重だ。なかでも、加藤の論と「対位」的に語られる、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』についての論考が印象深い。