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[神保町の匠]2021年の本 ベスト1

『令和元年のテロリズム』、『アスベストス』、『安いニッポン』……

神保町の匠

佐藤美奈子(編集者、批評家)
朝井リョウ『正欲』(新潮社) 

 実際にはあるのに、社会や世間であたかも「無い」ように扱われているモノ・コトを言葉にしていく作業は、文学にこそ可能な大切な役割の一つでしょう。そういう仕事を成し遂げた作品は、ただ文字を読む行為では絶対に得られない、「新たな体験」を読者にもたらします。そうした体験を与えられた点で、本書が今年のベスト1です。きわめてデリケート、かつ「異常」や「性癖」の語で片付けることが決してできない世界に踏み込んでくれた勇気への感激が止みません。個人と個人を隔てる壁がどれほど絶望的に厚いか、にもかかわらず、人はどこまで行っても社会的存在であることを免れないか、について考えさせられました。

 私が書くこの文章を読んでも、どういう内容の小説か、恐らくわかりづらいはずです。本書はとてもわかりやすく表現されているのに、安易にあらすじを描けません。一冊を丸ごと読むことが「体験」となるゆえんは、そこにもあるでしょう。

朝井リョウ拡大朝井リョウ

中嶋廣(元トランスビュー代表)
與那覇潤『平成史──昨日の世界のすべて』(文藝春秋)

 私は8年前に脳出血で半身不随になった。それで平成の最後の5年がおぼろである。著者は才走った筆で一気に読ませるが、その結論は「さようなら、『通史』を描くことがありえた、日本で最後の時代」というもの。慨嘆は限りなく深い。しかし次の令和には地球規模の気候変動と、人口減による日本国の消滅の話がもうそこまで来ている。

 他に萩尾望都『一度きりの大泉の話』(河出書房新社) 萩尾望都が竹宮惠子に虐められた話かと思ったら、そうではなく萩尾の自己処罰の本だった。これは元が語りだが文体は素晴らしい。鈴木忠平『嫌われた監督──落合博満は中日をどう変えたのか』(文藝春秋) 落合の謎かけを選手やフロントが存在をかけて解いていく。監督の落合をまた見たくなった。佐久間文子『ツボちゃんの話──夫・坪内祐三』(新潮社)  頑固で稀代の同時代史家を、妻が活写した白眉の追悼文。ただただ唸った。

萩尾望都『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)拡大萩尾望都『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)

野上暁(評論家、児童文学者)
松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社)

松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社)拡大松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社)
 アナキズムは無政府主義と訳され、国家権力のフレームアップによる大逆事件以来、100年以上過ぎてもメディアに刷り込まれた過激な危険思想というイメージが拭い去りがたい。それを庶民の「くらし」に結び付けて、混迷する世界に希望と可能性を見出そうという試みが新鮮で示唆的だ。著者は文化人類学者としての知見やフィールドワークから、アナキズムが目指す支配権力のない状態は理想論でも夢でもなく、「人類にとっての初期設定」であり、現代にも息づいているといくつかの例を挙げる。

 機能不全の民主主義とコロナ禍で露呈した無能な国家の下でどのように自分たちの手で生活を立て直し守っていくか。「くらし」の中に政治と経済を取り戻し、国家などの大きなシステムに頼るのではなく、下からの民主的な「公共」の場を作る日常のコミュニケーション技法を、エチオピアの小さな村での体験から導き出すなど、エキサイティングな1冊だ。

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