【42】初代コロムビア・ローズ 東京のバスガール
2021年12月24日
「東京のバスガール」1957(昭和32)年
作詞・丘灯至夫、作曲・上原げんと
歌・初代コロムビア・ローズ
歴史的遺産はしばしば“不都合な真実”を覆い隠す。
古くは奈良の大仏だろうか。今でこそ侘び寂びた重厚な存在感を示しているが建立当初は金ぴか。中国伝来の最新技術で水銀をつかい金箔を蒸着させたことにより、大量の水銀が奇病を発生させ、人心の不安を招き、平城京はわずか30年しかもたなかったという“不都合な真実”がおもてだって語られることはなかった。
新しいところでは、2015年に世界遺産に認定された長崎県の炭鉱廃墟、俗称「軍艦島」である。日本の近代化に貢献した産業レガシーとして観光ツアーが組まれているが、かつてここの地底で死者をふくむ労災事故を多発させた「負の物語」は、はるか忘却の彼方へおしやられている。
本連載の通しテーマである「昭和歌謡遺産」にも同様のことがいえそうだ。
歌は世につれる以上、“不都合な真実”はなかなか歌にはなりにくい。いや、なったところで、そもそもはやらない。“不都合な真実”の告発は、もっぱら労働運動歌や、社会派のプロテストフォークソングにゆだねられる。その結果、ヒットチャートからは、世の中が認めたくない事象は覆い隠され、世の多くの人々にとって「あらまほしきもの」が歌のテーマとなって受容され流布されることになる。
だからといって、「流行り歌」は信用できないといっているのではない。
むしろ逆である。
それでも“不都合な真実”は、流行歌から完全に覆い隠されることはできず、いつしかじわじわと滲みでてくる。それは、搾取はけしからん、戦争はいけないと声高に断罪する労働運動歌やプロテストフォークソングよりも、かえって説得力をもって、「時代の深層にある真相」を垣間見せる。そして、戦争を挟んで60余年もつづいた「昭和」とは一体いかなる時代であったのかをも、あぶりだしてくれる。
そのためのうってつけの「素材」こそ、誕生時には「乗合自動車女車掌」と呼ばれた「バスガール」ではないだろうか。それは、バスガールが昭和とともに生まれ、昭和とともに消えていった、昭和を象徴する「仕事」だからである。それに加えて、昭和という時代における女性と社会とのかかわりをあぶりだしてくれる象徴的な「働き方」でもあるからだ。
明治維新以降の日本の近代化は、女性たちのあいだに、それまで江戸時代にはなかった多くの「仕事」を誕生させた。
日本の女性誌の草分けの一つである『婦人画報』の1924(大正13)年4月の春季特大「婦人新職業号」には、当時女性たちが就いていた職業として、「女医、歯科医、英語の先生、婦人速記者、秘書、美顔術師、カフェの女主人、電話交換手、女工、印刷屋、女店員、ウエートレス、楽屋の女優、踊りの師匠、髪結い、ガイド」などが挙げられているが、そこにはまだバスガールの名はない。
1920年(大正9年)1月に、東京市街自動車会社(後に東京乗合自動車と改称)が輸入車100台をもって運行を開始、初めて女性車掌を乗車させたが、数はわずか37人と少なく、初任給35円という高給の広告塔でしかなかった。バスガールが一般女性にとっての「新職業」として本格的にノミネートされるのは、その3年後におきた関東大震災で市民の足だった東京市営の路面電車の軌道が壊滅、その代替として走りはじめたバスに女性車掌が採用されたのが契機である。
昭和に入ると民間バス会社の参入が相次ぎ、バスガールたちはその制服から東京市営は「赤襟嬢」、民営一番手の東京乗合自動車は「白襟嬢」と呼ばれ、互いに対抗心をもやしながら、その数をふやしつづけた。昭和9年の4月23日の東京朝日新聞には、こう記されている。
「円太郎千百十八名、青バスの六百九十三名の動員数を筆頭として市内乗合自動車会社四十四に総計二千七百といふあっぱれな女子職業の戦線ぶりだ」(なお、「円太郎」とは東京市営のバス、当初11人乗りのT型フォードで、落語家の円太郎から「乗り心地はいまひとつ」と揶揄されたため。かたや「青バス」は民営最大の東京乗合自動車の車体の色からそう呼ばれた)
戦争をはさんで、戦後も路線バスは全国各地で地域住民のもっとも身近な足となり、バスガールは最盛時には都営だけでも相当数にのぼった。だが、昭和40年代後半からは若年女性労働者の不足と地下鉄建設による乗客の激減などの経営不振から、それ以前に導入されていたワンマン化が促進され、平成を迎えるまでにはついに姿を消すことになる。
バスガールは、まさに昭和と共に生まれ昭和と共に消えた女性の「新職業」であり、昭和のシンボルでもあったわけだが、興味深いのは、それが昭和歌謡史のなかに、はっきりと刻みこまれて、ひとり気炎を吐いていることだ。
昭和が終わって元号が平成と改まったのを機に、NHKでは20代以上の男女2000人を対象に、「心に残る昭和の歌」なるアンケート調査が実施されている。
ちなみに上位200曲のうちのトップ5は――
「青い山脈」(昭和24)藤山一郎・奈良光枝)
「影を慕いて」(昭和7、藤山一郎)
「リンゴ追分」(昭和27、美空ひばり)
「上を向いて歩こう」(昭和36、坂本九)
「悲しい酒」(昭和41、美空ひばり)
これらをふくむベスト200曲からは多様な検証ができそうだが、本稿のテーマである「昭和の女性の働き方」に関わると思われる曲をぬきだすと以下のとおりである。
7位「瀬戸の花嫁」(昭和47、小柳ルミ子)
8位「岸壁の母」(昭和29、菊地章子)
13位「お富さん」(昭和29、春日八郎)
33位「こんにちは赤ちゃん」(昭和38、梓みちよ)
66位「東京だよおっかさん」(昭和32、島倉千代子)
96位「おふくろさん」(昭和46、森進一)
114位「銀座カンカン娘」(昭和24、高峰秀子)
120位「花街の母」(昭和48、金田たつえ)
134位「東京のバスガール」(昭和32、初代コロムビア・ローズ)
135位「九段の母」(昭和14、塩まさる)
143位「時には母のない子のように」(昭和44、カルメンマキ)
149位「嫁に来ないか」(昭和51、新沼謙治)
162位「愛ちゃんはお嫁に」(昭和47、鈴木三重子)
185位「ゲイシャワルツ」(昭和27、神楽坂はん子)
195位「新妻鏡」(昭和15、霧島昇・二葉あき子)
驚かされるのは、「嫁(妻)と母」をテーマにした曲が合計で11もあること。なんと多いことか。これに対して「夫と父親」をテーマにした曲は、「関白宣言」(109位、昭和54年、さだまさし)、「娘よ」(49位、昭和59年、芦屋雁之助)のわずか2曲。さらに驚かされるのは、昭和歌謡が女性たちに期待した「良き嫁(妻)と良き母」以外の働き方としては、バスガールを除くと、「接客」(「ゲイシャワルツ」)と「愛人」(「お富さん」)しかないことである。
片や男たちの「職種」は多種多様にわたっている。
格闘家(6位「柔」昭和59、美空ひばり、)教師(44位「せんせい」昭和47、森昌子)、船乗り(51位「港町13番地」昭和32、美空ひばり)、サラリーマン(69位「おーい、中村君」、昭和33、若原一郎)、警察官(136位「若いお巡りさん」昭和31、曽根史郎)、木こり(57位「与作」昭和53、北島三郎)、板前(145位「月の法善寺横丁」昭和35、藤島桓夫)、渡世人(104位「無法松の一生」昭和33、村田英雄、117位「大利根月夜」昭和14、田端義夫、132位「勘太郎月夜唄」昭和18、小畑実、80位「潮来笠」昭和35、橋幸夫)
ここからは、昭和という時代と、社会が女性たちに期待し、女性たちも甘受してきたものが何であったのかが、流行歌を通して見て取れるだろう。いっぽうで、こうした圧倒的な男性優位原理の中にあって、エッセンシャルワーカーであるバスガールをフィーチャーした「東京のバスガール」が134位にランクインして一人異彩を放っていることは、注目に値する。
なお、114位「銀座カンカン娘」(昭和24、高峰秀子)があるが、♪男なんかにゃ騙されない、自立した女性をテーマにしているが、あくまでも「生き方」の主張であって、「働き方」は明示されていない。その点からも、「東京のバスガール」は異色かつ貴重である。
どうやら異彩を放つこのヒット曲には、昭和という時代を読み解く重要な手がかりがありそうだ。首尾よくいくかは保証のかぎりではないが、バスガールと昭和歌謡を手掛かりに検証を進めることにしよう。
「東京のバスガール」は1957(昭和32)年のリリースだから、世に出てから60年以上もたつ。それなのに、私よりも20歳以上も下の世代が、口ずさめないまでもこの歌を聞き覚えていることを不思議に思ったことが、これまでに何度かあった。聞いてみると、中学・高校時代、東京への修学旅行の折にバスガイドから聞かされたといい、そのほとんどが「バスガール」を「バスガイド」と誤認していた。
その都度、彼らの誤解をとくためにした説明をここで繰り返すと、かつて昭和40年代までは日本全国の路線バスには女性の車掌が同乗、通学通勤者は定期券を見せ、そうでない乗客は車掌から購入した切符にハサミを入れてもらい、支払った料金や釣り銭が彼女の大きながまぐち状の鞄を出たり入ったりする、そんな情景が見られたのである。
その情景を日常的な体験として記憶にとどめているのは、私たち戦争直後に生まれた団塊世代よりもせいぜい10歳下までだろうか。
自宅は駒沢通から脇へ100メートルほど入ったところにあり、東横線から歩くと中目黒駅と祐天寺駅のどちらからも14、5分ほどかかり、最寄りのターミナルの渋谷へ出るときは、もっぱら東急バスをつかっていたので、バスガールは身近な存在だった。だが、彼女たちは、歌のようには、紺の制服を身に着けてはおらず、♪発車オーライの掛け声とともに、明るく明るく走ってもいなかった(今回調べて知ったが、コロムビア・ローズが着ていた紺の制服は演出用に「はとバス」のを使ったのだという)。
私の記憶にある実際の「東京のバスガール」は、垢ぬけない、どこかくすんだイメージで、歌と現実とのずれを感じさせられた。だから、そのままだったら、この歌はわが青春の思い出の一曲にはなっていなかっただろう。
私が入学したのは6年制の中高一貫校で、クラスの三分の一近くは多摩川を越えて川崎や横浜から通学してきていた。ある日、同級生の一人から、「知ってるか、あの浜美枝は、臨港バスで車掌をしていたんだぜ」というビッグニュースがもたらされた。
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