2021年12月24日
デンマークの生んだ天才監督、カール・テオドア・ドライヤー(1889~1968)の貴重な特集が、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムほかで開催される(12月25日~)。ラインナップは、サイレント期の名作『裁かるゝジャンヌ』(1928)、後期ドライヤーの代表作『怒りの日』(1943)、『奇跡』(1954)、『ゲアトルーズ』(1964)の4本。いずれも絶品だが、以下では、私が最もインパクトを受けた『奇跡』と『ゲアトルーズ』を中心に、“ドライヤー覚書”を記してみたい。
たしかに、ドライヤーの映画は映画狂をしびれさせる“神品”だ。しかし同時に、ひたすら面白く美しく感動的な、万人向きの娯楽映画でもある。なのに、その面白さ・美しさ・感動があまりに破格なので、人は動揺し、つい彼を「聖なる……」と呼んでしまう。だから私たちは、ただ無防備に、虚心にドライヤーと向き合えばいいのだ(プロテスタントの福音ルーテル派を国教とするデンマークで生まれ育ったドライヤーは、宗教的主題を好んで取り上げたが、それは彼の映画の素材でしかない。ドライヤー作品が、キリスト教信仰に無縁な者にも訴求するゆえんだ)。
1930年代に時代が設定された『奇跡』は、デンマーク・ユトランド半島の寒村で大農場を営むボーオン一家と、近隣の村の仕立て屋ペーター一家をめぐる確執と和解が、物語の中心である。
それぞれモーテン(ヘンリック・マルベア)とペーター(アイナー・フェーダーシュピール)を家長とする両家は、宗派の異なるキリスト教を信仰しているため、不仲だった。ゆえに、ボーオンの三男アナス(カイ・クリステンセン)がペーターの娘アンネ(ゲルダ・ニールセン)に恋心を抱いていることを、モーテンとペーターは快く思っていない。そして、ボーオンの長男ミッケル(エーミール・ハス・クリステンセン)には妻インガー(ビアギッテ・フェーダーシュピール)と子供が二人おり、インガーは3人目を妊娠中だ。次男のヨハンネス(ブレーべン・レーアドルフ・リュ)は自らをキリストだと信じているが、周囲の者に彼は、長い間不安定な精神状態にある、正気を失った男と思われていた(“異人”ヨハンネスは人びとが真の信仰を喪失していると嘆くが、本作の原題Ordetは「(本作では)聖書に書かれた神の御言葉(みことば)」を指す)。
そんなある日、インガーが赤ん坊を死産したのち、容体が悪化し帰らぬ人となる。家族が悲しみに暮れるなか、ヨハンネスは失踪するが、インガーの葬儀の日、彼は不意に姿を現わし、祈りを捧げる。その場には、モーテンと和解したペーター、アナスに寄り添うペーターの娘、アンネの姿もあった。インガーの死を悼んで集うことで、両家の対立は解消されたのだ。そして、深い感銘をもたらすこの和解のシーンののちに、最大のクライマックスが訪れる……。
このように『奇跡』は、対立・葛藤→和解という典型的な家族メロドラマが、神への信仰という宗教的なテーマと結びついて、エモーショナルに展開される(ドライヤー自身による緻密な脚本も見事)。
だが『奇跡』の耐え難いほどの美しさは、何より、こうした家族劇を描き出すドライヤーの、文字どおり天才的な画力、演出力によっている。──たとえば冒頭まもなく、澄み切った空を背景に葦が風に揺れ、白い布がひるがえる小高い丘を写し、次いでその丘を登っていくヨハンネスを写す超絶なロングショット(こんな凄いショットを撮れる監督は、ドライヤー以外ではジョン・フォードと山中貞雄くらいだろう)。
そして、農場の広大な敷地や建物をゆるやかになめていく移動撮影の、あるいは、天井の低い室内で人物たちが不動の姿勢を保つさまを、引きのカメラが完璧な構図に収める。そのフィックス(固定画面)の、“奇跡のような”素晴らしさ。しかもその「完璧な構図」が、やがてカメラのパンや巧みなカット割りによって変化する、静と動の絶妙なバランス。精密ではあるが、長回し一辺倒でも、カット割り一辺倒でもない、柔軟なカメラワークだ。そして、それが示すのは、映画が本質的に運動体であるということだ(けだし、1作ごとに作風や題材を“柔軟に”変えたドライヤーは、映画監督に一貫したスタイルを見いだそうとする<作家論>の対象にはなりにくい)。
さらにボーオン家の室内の無表情な壁の白さ。そして強い日差しを濾過(ろか)する窓のカーテンのくすんだ軟調の白さ。さらにインガーの横たえられた柩(ひつぎ)の放つまばゆい白さ。視覚を快く刺激する、こうしたドライヤーの<白>を讃嘆しつつ、フランソワ・トリュフォー監督は、ドライヤーの画(え)づくりの厳格さについて、こう言う──「フィルムのわずかひとコマすら、ドライヤーの精緻な計算から外れたものはない」(「カール・テホ・ドライヤーの白のイメージ」、フランソワ・トリュフォー『映画の夢 夢の批評』所収、山田宏一・蓮實重彦訳、たざわ書房、1979)。
ちなみに、ドライヤーは『裁かるゝジャンヌ』で、<白>をフィルムに効果的に感光させるために、室内をピンク一色で塗りこめたというが、『奇跡』の室内もそうした塗装がなされたのか。いずれにせよ、モノクロ映画しか残さなかったドライヤーは、白と黒の対比を極限まで追求したシネアストでもあった。
1作ごとに作風と題材を変えたドライヤーの映画で、唯一変わらないのは、俳優たちの緩慢な動作、そして極度に切り詰められた非=演劇的なセリフであるが、『奇跡』にあっても、ほとんど表情を変えぬ寡黙な人物たちは、最小限に圧縮されたセリフを、抑揚を欠いた口調でゆっくりと喋る。とりわけ、放心したような様子で両手を大きく広げ、“異言(いげん)”をぽつりぽつりと、しかし妙に甲高い声で発するヨハンネスの姿には、神秘性と同時にかすかなユーモアも漂い、目を奪われる(“異言”とは宗教的恍惚状態にある者が語る、常識では理解できない言葉だが、常識の外で生きる真の信仰者である彼こそが、神の恩寵を確信していた)。<星取り評:★★★★★+★>
ドライヤー最後の映画であり、『奇跡』同様、映画史における突出した傑作の一本。
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