メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

東京のバスガールは明るく走ってはいなかった!?後編

【43】初代コロムビア・ローズ 東京のバスガール

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

「東京のバスガール」1957(昭和32)年

作詞・丘灯至夫、作曲・上原げんと

歌・初代コロムビア・ローズ

東京・迎賓館前で説明をする車内のバスガール=1956年10月

東京のバスガールは労働運動の花でもあった!?

 「東京のバスガールは明るく走ってはいなかった!? 前編」に引き続き、バスガールについて書く。銀幕のスターになった浜美枝という中卒のバスガール出身のシンデレラによって、わが青春の思い出の歌となった「東京のバスガール」だが、後に、背後に看過できない“不都合な真実”があると知って、私にとっては、ますます忘れられない歌となった。

 それは、1965(昭和40)年に大学へ進学したのとほぼ時期を同じくして、中学・高校の6年間、通学につかった都電が次々と撤去。代替された路線バスもワンマン化。これに対し、都営交通の労働者たちのあいだに反対運動が沸きおこり、廃止される軌道に彼らとともに座り込んだのが契機だった。

 当時はベトナム反戦が世界的な盛り上がりをみせ、日本でも多くの学生がそれに参加。そのいっぽうで高度経済成長への総仕上げのなかで、産業の合理化が進行。都電の撤去もバスのワンマン化もその一環だった。

 反戦という政治課題と、反合理化という労働運動の課題のふたつが結び付けば、6、7年前の1960年では安保闘争と三池闘争が結びつかずに敗北した失敗を乗り越えて、今度こそ日本の戦後体制を根本から変えることができるのではないか。そんな「夢物語」が、政治にめざめた当時の若者たちの一部では、現実味をおびつつあった。

 したがって東交(東京都交通局労働組合)の労働者たちは頼もしい連帯の相手だったのだが、私の場合はそれにいささか不純な動機が加わっていた。

 当時、女子の4年制大学進学率はせいぜい1割から2割。定員3400人の東大の女子合格者が、戦後はじめて100人を超えたことが新聞記事になったほどで、学生運動でも参加者にしめる女子の割合は1割から2割。一方、労働組合には青年婦人部があり、「労学連帯」によって同世代の若い女性たちと出会えることが期待され、とりわけバスガールを抱える東交ではその確率はかなり高かったからだ。

 しかし、そこで出会ったリアルなバスガールたちが置かれていたのは、歌詞とはちがって「♪若い希望も恋もある」ようなヤワな状況とはほど遠く、私の不純な動機がかなうことはなかった。

体調を崩しても盆や正月を休まず働いて

 そこは、男性のバス運転手よりもはるかに厳しい肉体労働の「現業の現場」であった。

 ちょうど「東京のバスガール」がラジオやテレビから流れてヒット曲となっていたころ、バスガールの元締めである東京都交通局の広報誌に、「女子車掌(バス)の仕事」と題された文章が掲載されていて、そこから当時の彼女たちの労働実態を改めて確認することができる。

 「動くバスの中で立ち続けるため、見習生たちは足の疲れに悩まされるのが常で、痛みのあまり夜には正座ができなくなる者もいるほどでした。しかし10日ほどすると慣れ、終日立ち続けても平気になるのです。

 勤務は決して楽ではありません。失敗したりラッシュで体調を崩したりしながら、それでも毎日の乗務が楽しく満員のラッシュアワーが苦にならなくなって一人前の車掌といえるのです。正月やお祭りなど世間の女性が着物を着て浮かれ気分になるときは、女子車掌たちにとっては反対に忙しいとき。お盆も正月もないわけです。普段の勤務は6勤1休でしたが、7か月に一度は2連休をとることができたため、車掌たちは『ダブル公休』と呼んでその日を楽しみにしていました。忙しい中で若き女子車掌たちは力強くその青春を謳歌し、市バスに花を添えていたのです」(「交通局報」第21号1958年3月)

 「体調を崩そうとも盆や正月も休まずに働く」ことをバスガールへの「誉め言葉」にしているところに、当時の使用者側の「女子労働観」が透けてみえる。さらにいえば、当時は、それが世間から女性たちの花形とされていたバスガールの実態でもあったのである。

 もしこれを今の女性たちが読んだら、「東京のバスガール」になろうなどとは絶対に思わないだろう。いや、当時の女性たちですらためらったはずである。それでも多くの中卒の女子たちがバスガールをめざした理由の一つは、おそらく「東京のバスガール」の出だしの歌詞「♪若い希望も恋もある」に夢をみたからではないか。そして、実際にバスガールになってみて現実は歌とは大違いであることを体感して愕然としたのではないか。

 となると、この歌は、バスガールたちへの応援歌の形をとりながら、実際はバスガールに過酷な働き方を強いる使用者への応援歌になった可能性がある。

混み合うバスの車内、「間に合わない」とどなる客、泣きわめく子供…、どんなに不快指数の高い日でもプンとできないのが車掌をつとめるバスガール車掌の宿命=1961年9月

終業後の入浴は身体検査?

 しかし、私のなかで「東京のバスガール」のイメージを反転させたものは、それだけではない。決定的なダメ押しをしたものがある。それは、「バスガールたちの終業後の入浴」である。

 勤務が終わると入浴するのが彼女たちの「日課」だとはじめて聞かされたときは、てっきりこう思った。さすがは戦闘的な組合で知られる東交だ、バスガールたちが一日の疲れを癒すための「福利厚生の権利」を勝ち取ったのかと。

 というのも、東京都清掃局の組合活動家の友人から、業務完了後に汚れた身体を洗うための入浴とその後の団らんを、「福利厚生の権利」として当局に認めさせていると聞いていたからだった。(国鉄の一部の機関区では、労働者たちには就業中にも「入浴」が認められていて、これは後に「国労バッシング」のネタにもつかわれた)

 それを口にしたら、「学生さんは労働者と連帯するとかいってるけれど頭でっかちで現実を知らない」と笑われた。実は「終業後の入浴」は切符の売り上げを隠していないかを確認するための「身体検査」を兼ねていたのである。

 この“不都合な真実”を知らされとき、私は、「許せない」という道義的な怒りと共に、なにやら艶めかしい情景が脳裏にうかび、そんな自分に恥じ入ったことを、今でもはっきりと覚えている。

「密行」が来ているから風呂にはいるな!

 もう半世紀以上も前の話なので記憶に誤りがあってはいけないと思い、元バスガールを尋ねあてようとしたが、半世紀を超える年月がそれを阻んで叶わなかった。そこで、ネットを渉猟しているうちに、元都バスの車掌だった母親の体験記を聞き書きしたブログに遭遇した。

 母親は昭和33年に入局したというから、私が出会った“闘うバスガールのお姉さん”たちとほぼ同世代と思われる。そのブログの中の以下のくだりが、私を当時に引き戻してくれた。

 「乗務を終え、お風呂に入ろうとしたところ『密行が来てるから今はいらない方がいい』と、耳打ちされたこともあったそう。横領を防ぐため、時々『密行』といわれる人がバスに乗り込んできてチェックしていたそう。バスの中以外でも入浴時にお金を身に着けていたらアウト! 常に監視されているような状況も母にとっては苦痛で、『黒歴史』につながったのかもしれません」都バスに車掌さんがいた風景3(参照

 「密行」とはなんとも時代がかった言葉だが、たしかに私には聞き覚えがあった。ウラをとろうにも、直接当人たちを尋ねあてることができないままなので、昭和30年代、都電の運転手として青山営業所で組合支部の青年部長をつとめていた運動の大先輩のMに、コロナ禍の見舞いをかねてたしかめてみた。

・・・ログインして読む
(残り:約4102文字/本文:約7247文字)