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必見! 『弟とアンドロイドと僕』──不気味で異形の分身映画

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 阪本順治監督の『弟とアンドロイドと僕』は、自分が存在している実感を得られないことに苦しむロボット工学者、桐生薫(豊川悦司)が主人公だ。その存在感覚の欠落を埋めようとして、薫は自分そっくりのアンドロイド製造に没頭するが、彼を理解不能な「変人」とみなす家族、親類、上司と彼との間で起こる対立や不協和が、一見突拍子もない彼の「奇行」とともに、異様にギクシャクしたタッチで描かれる。このギクシャク感が素晴らしい。

『弟とアンドロイドと僕』 「kino cinéma横浜みなとみらい」他にて全国順次公開 © 2020「弟とアンドロイドと僕」FILM PARTNERS『弟とアンドロイドと僕』 「kino cinéma横浜みなとみらい」他にて全国順次公開中 © 2020「弟とアンドロイドと僕」FILM PARTNERS

 よって、意味不明に思えるシーンがつづく序盤から、ドラマがいわば“鈍い意味”を帯びてスリリングに立ち上がってくる中盤、終盤、そしてラストまで、観客はスクリーンに釘付けになる。ただし全編を通底する、咀嚼(そしゃく)しえない異物のような何かは、終映後も観客の心から消えない。が、それもまた本作が、鈍痛のようなショックをもたらす異形の傑作であるゆえんだ。

全編に醸成される陰鬱なテイスト

──冒頭、エレベーターの戸口に立ち、暗い廊下を歩く長身の薫/豊川悦司の姿からして、ひどく不気味だ(焦げ茶のコートに身を包み、フードをすっぽりと被っている)。そして全編、降りつづく雨。カラーなのに彩度と光量を極端に落とした画調。また、雨の降りしきるなか、ノスタルジックな木造の駅の改札口や、画面奥が白く光るトンネル状の切り通しの映像の反復が、物語的な意味を超えた、映像それ自体の強度を放つ。……それらが、寡黙で無表情で、何を考えているのかわからない薫の人物像とあいまって、この映画の陰鬱なテイストを醸成する。

 さらに、薫がアンドロイドをひそかに作っている廃墟化した病院──薫の父(吉澤健)が開業していた医院──の一室の、幽霊でも出そうな不穏な雰囲気はどうだろう(ぶ厚い闇の中に弱い光を配した、暗さを強調するローキーの照明設計が卓抜だが、薫はその古びた洋館に独居している)。薫はそこで、冷蔵庫から取り出したカレーライスを、もぐもぐと口を動かして食べる(究極の孤食)。

 あるいはさらに、薫の主観ショットであろう、レントゲン写真のようなネガポジ反転の、何が映っているのかが不明なモノクロ映像や、ただ一人、薫が受け入れる生身の(?)人間である謎めいた少女(片山友希)の出現。そうした、現実/非現実の境界に表れるような映像の一連も、断片的なイメージが不連続につながれるギクシャク感を生む。

『弟とアンドロイドと僕』 © 2020「弟とアンドロイドと僕」FILM PARTNERS『弟とアンドロイドと僕』 © 2020「弟とアンドロイドと僕」FILM PARTNERS

 また、大学で薫が講義する様子も、ひどく奇妙だ。“けんけん(片足跳び)”しながら教壇に上がり、ほとんど何もしゃべらず、黒板に複雑な数式をびっしりと書き連ねると、学生たちに向かって、字が汚くてごめんなさい、とぼそりと言う。そして、呆れ顔の学生たちを尻目に、ふたたび“けんけん”をしながら教室を出ていくのだ(なんというギクシャク感!)。不気味かつ頓狂な場面だが、戸外でも薫はしばしば、雨に濡れながら“けんけん”をし、観客を面食らわせる(後述するように、彼のこの身体動作は本作の肝のひとつだ)。

『弟とアンドロイドと僕』 © 2020「弟とアンドロイドと僕」FILM PARTNERS『弟とアンドロイドと僕』 © 2020「弟とアンドロイドと僕」FILM PARTNERS

存在感覚の希薄さが表れる “けんけん”

 このように薫は、私たち俗人からすれば「変人」であり「異人」であるが、俗人の代表ともいうべき大学の学科長・白井(本田博太郎)が、あなたには道路のひび割れを修理するロボットの開発をお願いしたんだから、ちゃんとやってね、と困惑顔で言うところも可笑しい。そこでの薫は、白井に一言も言葉を返さず、また一度も彼と目を合わせない。つまり薫は、白井との一切のコミュニケーションを拒むわけだ。

 同様に、腹違いの弟、求(もとむ:安藤政信)が、寝たきりの父/吉澤健が昏睡状態に陥ったと伝えに来て、入院費を執拗にせびるシーンでも、

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