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永代供養墓が広がる理由──お墓は誰がまもるのか?

[14]多様化の道を進む葬送とお墓

薄井秀夫 (株)寺院デザイン代表取締役

跡継ぎを前提としないお墓

 永代供養墓というお墓のカテゴリーがある。

 ご存じの方も多いと思うが、跡継ぎを前提としないお墓のことである。

 お墓というのは、亡くなった人の遺骨を納める場であるが、当然、そのお墓をまもる人がいる。ちなみに「お墓をまもる」というのは、そのお墓の管理をし、納められている遺骨の供養を続けることを言う。一般的には亡くなった人の長男がまもるが、近年は子どもがいないなど、自分の死後、お墓をまもってくれる人がいないという人も少なくない。まもる人がいないと、墓地の管理料が支払えなくなったり、掃除や草むしりをする人がいなくなり、「墓が荒れる」という状況になってしまう。

 また当然、供養をしてくれる人もいなくなる。いわゆる「無縁墓」になってしまうのである。

 そうした方々のため、遺族に代わってお寺がお墓をまもり、また遺族に代わってお寺が故人を供養することを約束したお墓、つまり永代供養墓が生まれたのである。

 永代供養墓が生まれたのは、平成元年(1989年)のことである。この年、新潟・巻町(現在は新潟市)の日蓮宗妙光寺の安穏廟と、東京・巣鴨の高野山真言宗功徳院東京別院のもやいの碑というそれぞれ永代供養墓が建立された。

東京・巣鴨の高野山真言宗功徳院東京別院のもやいの碑東京・巣鴨の高野山真言宗功徳院東京別院のもやいの碑

 この時代、少子化が進みつつある中で、自身のお墓に悩む人が増え始めていた。子どもがいなくてお墓をどうしたらいいか困っていた人、あるいは、女性の一人暮らしで自分のお墓をどうしたらいいか不安になっていた人など、従来のお墓のあり方にあわない人が増えつつあったのである。

 そうした時代の中で生まれた永代供養墓という新しいカテゴリーのお墓は、社会的に大きな注目を浴びた。テレビ・新聞など、数多くのメディアにも取り上げられ、永代供養墓ムーブメントと言っても過言ではない状況が生まれたのである。

お墓を中心とした「新たなコミュニティ」

新潟・巻町(現在は新潟市)の日蓮宗妙光寺の安穏廟日蓮宗妙光寺の安穏廟の前で開かれた合同供養祭=1999年8月、新潟県巻町(現在の新潟市)

 この二つの永代供養墓であるが、偶然にも、子どものいない人のお墓ということ以外にも、共通するコンセプトを持っていた。

 それは、いつか同じお墓に入る者同士なのだから、生前にも交流をしよう、ということである。つまり、お墓を中心に「新たなコミュニティ」をつくるというコンセプトだ。

 実際、これらの永代供養墓を運営する妙光寺、功徳院別院のどちらも、講演会や交流イベントを定期的に開催するなど、人々の交流を深める努力をしている。建立して年数を重ねるごとに、仲間意識も生まれ、新たなコミュニティが少しずつ広がっているのも事実だ。

 この二つ以降、永代供養墓を建立するお寺は、加速度的に増えてきた。お寺としては布教の手詰まり感のあった時代で、新たな布教方法のひとつとしても注目された。

 中でも「新たなコミュニティ」というキーワードは、実に魅惑的だった。仏教界では、お寺はかつて地域コミュニティの中心だったが近年はその役割を失ってしまったと考える僧侶が多く、永代供養墓はそうした過去の黄金時代復活の夢を見せてくれたのである。

 そして多くの、妙光寺フォロワー、功徳院別院フォロワーを生み出したのである。

 ただし、現実として「新たなコミュニティ」への取り組みがうまくいったお寺はほとんど無い。

 その理由は、コミュニティの構築には丁寧なコミュニケーションが前提なのにもかかわらず、スローガンだけが先行して、現実が伴わないお寺が多かったことがひとつである。

 そしてそれ以上に大きいのが、永代供養墓を望む人の多くは、

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