「正論」が受け入れられないのはなぜなんだろう
2022年01月27日
私たちはひとしなみに弱点を抱えている。
ものを考える際にも、この弱点は浮上する。私たちが誰かの発言に耳を傾けて、その是非を判断しようとする場合、もちろん私たちは是非というものを真剣に検討するのだけれども、それは「何が」語られたのかよりも「誰によって」語られたのかに重きが置かれがちだ、と感じる。
政治的なイシューの問題は、好感を抱いていないあの人物の発言だから否定する、といった傾向だろう。私たちは瞬間的に「それ、誰が言ったんだ?」と反応してしまって、「誰が言ったかはどうでもよい。それよりも、何を言ったんだ?」とは、発言に飛びつけない。
というわけで、WHO(世界保健機関)のテドロス事務局長である。
われわれがコロナの時代を生きているこの2年間の、ことに日本において、この人ほど「正論を言っても、耳を傾けてもらえない」人間もいないなあと私は感じる。
この発言が正論ではなかった、と言えるわけがない。
なにしろ実際にオミクロン株は生まれたのだから。そして、たとえば昨年末、テドロス事務局長は朝日新聞などに寄稿して、やはり「ワクチンが(偏狭なナショナリズムを超えて)平等に供給されれば、大流行は終わる」といった主旨も含めた発言をした。
ここで「未接種の人たち」と名指されたのはアメリカ国民のうちの未接種者であり、この発言は百パーセント自国向けなのだが、要するにバイデン大統領は「平等にワクチンが供給されないから、大流行になっている」とテドロス事務局長の発言を裏打ちしたのだ。そのうえで、基本的なラインとしては「まずは自国」との行動を採っている。
それでは私はどうなのか? 筆者はもちろん政府関係者ではないので、ワクチンに関しての政策をいっさい左右できない。その事実はわきに置いても、これだけの自国内での感染拡大に臨むと「自分はいつブースターショット(三度めのワクチン接種)を受けられるのだろう?」と、やはり自己中心に考えてしまっている。
そういう時に、提言の主がテドロスでなかったら、とか、テドロスが日本はおろか世界の半数以上の国々で人気(=信頼)があったら、とか考えてしまうのだけれども、すでにこの文章の冒頭で触れたように、私たちは「ひとしなみに弱点を抱えている」のだから、正論の通じなさを嘆いてもしかたがない。
他人事ではないものとして、このワクチン接種の不平等が実際のところ「いかなる世界の分断」を表象しているのかを考えるために、卑近な例をひとつふたつ掘り下げてみたい。
このコロナ禍がもっともダメージを与えた業種だと言えるのは、いわずもがな飲食業である。
少し前に、私は親しい人間とふたりで中華料理店に入った。
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