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国家から捨てられたデラシネだった五木寛之さん~激動の半生から紡いだ人生哲学(下)

新刊『捨てない生きかた』に綴った捨てたくても、捨てることはできない記憶。

梓ゆかせ フリーライター

 作家の五木寛之さん(89)の新刊『捨てない生きかた』(マガジンハウス)。そこには、終戦後、朝鮮半島からの激烈な引き揚げ体験への思いも綴られている。おびただしい犠牲者が出た中で九死に一生を得た五木さんは日本へ引き揚げた後も「生き残った者の後ろめたさ」がずっと消えなかった。

五木寛之さん

五木寛之(いつき・ひろゆき)
1932年福岡県出身。北朝鮮で終戦を迎え、47年引き揚げ。早大露文科中退後、編集者やルポライターを経て、66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞を受賞した。主な作品は『青春の門』『親鸞』『大河の一滴』『下山の思想』など多数。

帰ってきた人間はみんな悪人

 《お先にどうぞ、などという優しい人間はすべて生き残れず取り残されてしまいます。乱暴に周囲を押しのけて前に出るようなエゴイスティックな人間だけが、帰ってくることができたのです。帰ってきた人間はみんな悪人であり、そして、ぼくもまたそのひとりです》(『捨てない生きかた』より)

 五木さんが終戦を迎えたのは、旧制中学1年生(12歳)のとき。場所は(後の)北朝鮮・平壌。そこで父親は教師をしていた。1945(昭和20)年8月9日、満州(現中国東北部)に侵攻してきたソ連(当時)軍は南下を続け、朝鮮半島の北半分(北緯38度線以北)を占領する。

 日本人は住んでいた住居を接収され、五木さんの一家もセメント倉庫の“収容所”へ追いやられてしまう。略奪、暴行、そして疫病が蔓延(まんえん)し、多くの日本人が命を失った。五木さんの母親もそのひとりだった。

 「発疹チフスが流行していました。大パンデミック(感染爆発)です。この病気はシラミを媒介して感染する。身体に斑点できたら終わり(死亡)。医者もいないし、薬もない。そのまま見送るしかないのです」

事実上の“棄民”として地力で脱出

『捨てない生きかた』(マガジンハウス)
 朝鮮北部地域からの日本人の組織的引き揚げは遅々として進まない。戦争に敗れて焦土となった日本政府の態度も煮え切らなかった。事実上の“棄民”とされた日本人は自分たちの力で脱出し、38度線を越えて南へ向かうしかなかったのである。

 五木さんの一家も南へと向かう。父親と五木さん、そして幼い弟妹。「僕は小さい弟の手を引いていたのですが、何度、置き去りにしようと思ったことか、分かりません。日本人の子供は(現地人に)人気がありました。売られたり、貰われていったり、モノやお金と交換することが頻々としてあったのです。もしもあのとき、弟を『捨てて』いたら、一生後悔したでしょうね」

 五木さんには、日韓併合下の朝鮮に住んでいたという複雑な思いもある。「(地上戦の戦場になった)沖縄の人たちは間違いなく『被害者』でしょう。でも、満州や中国、朝鮮に支配者の一族として居た日本人は、『被害者』であり『加害者』でもあったのではないでしょうか。だから引き揚げで酷い目に遭っても『自業自得じゃないか』といった罪の意識が消えなかったのです」

 それは、日本へ引き揚げた後も続く。

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