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アップデートなしで伝統は守れない

「ノーベル文学賞」を変えた女性の声から何を学ぶか

天野千尋 映画監督

ノーベル文学賞で知る、伝統を“聖域化”する危険

 『ノーベル文学賞が消えた日』(マティルダ・ヴォス・グスタヴソン著、羽根由訳、平凡社、2021)を興味深く読んだ。

拡大Marish/shutterstock.com
 スウェーデンの女性記者が「#MeToo」の流れを汲み、自国のアカデミー界で長い間黙殺されていた性暴力を暴いて、2018年のノーベル文学賞を発表中止に追い込んだ告発ルポである。綴られる性被害の深刻さやルポの緻密さはさることながら、それ以上にとても驚かされたことがあった。それは、ノーベル文学賞の選ばれ方のことだ。

 恥ずかしながら私は、賞の選考がどのように行われているか全く知らなかったのだが、本書によれば、この問題が起こるまで、ノーベル文学賞は「スウェーデン・アカデミー」の会員18名だけで選ばれていたという。「スウェーデン・アカデミー」という響きからどことなく厳正中立そうなイメージを抱いたが、実はそうでもなさそうなのである。

拡大スウェーデン・アカデミーが入る建物=ストックホルム
 スウェーデン・アカデミーは18世紀末から続く由緒ある組織で、会員はスウェーデンの著名作家や知識人など、国王に承認された終身会員18名のみ。誰かが死ぬまで新メンバーは入らない。たとえ会員が不祥事を起こしても、あるいは認知症になっても、顔ぶれは変わらないのである。その18名がノーベル文学賞をはじめ、毎年億単位の奨学金や賞金の決定を下していたのだが、驚くことに、その選考過程も決定理由も明かされないのだという。筆者は、この組織を“高貴な魔法”と呼び、沈黙を許された閉鎖的なコミュニティだと説明する。

 ノーベル文学賞といえば、例年世界中のマスコミを騒がす大変な賞。受賞すれば作品周りで莫大な金が動き、市場経済を動かし、作家の人生を大きく変える。その決定を下していたのが、言ってみれば謎めいたヴェールの内部にいる生涯特権階級の人たちだったのである。どう考えても偏りそうだし、私情が持ち込まれそう……と感じてしまった。何よりも、本書が暴いた性犯罪だって、金と権力構造を生むこの伝統的なヴェールのせいで黙殺され続けていた。問題があったと言わざるを得ない。

 伝統を受け継いでいくことは、勿論大切なことだ。だが価値観や文化が新しいものに生まれ変わろうとする時、“伝統の重み”が変化の足枷となることもある。18世紀末から続くスウェーデン・アカデミーの在り方は、現代の価値観にぜんぜんそぐわなくなっていた。そぐわないのに、利権の存在や、“由緒あるもの”への敬意が、変化を阻んでいた。代わりにヴェールに包んで“聖域化”していたせいで、人権侵害や不公平が隠されてしまっていた。


筆者

天野千尋

天野千尋(あまの・ちひろ) 映画監督

1982年生まれ。約5年間の会社勤務ののち、2009年に映画制作を開始。ぴあフィルムフェスティバルを始め、多数の映画祭に入選・入賞。主な作品に、WOWOWドラマ『神木隆之介の撮休』監督、土ドラ『僕の大好きな妻!』監督、アニメ『紙兎ロペ』脚本など。長編『ミセス・ノイズィ』が2020年に全国劇場公開。ニューヨーク・ジャパンカッツ観客賞受賞。日本映画批評家大賞脚本賞受賞。自ら執筆した小説版『ミセス・ノイズィ』(実業之日本社文庫)も刊行。 脚本を担当したドラマ『ヒヤマケンタロウの妊娠』がNetflixで配信中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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