あの事件の後のつかこうへい、そして僕たち
NHKで再び大竹しのぶドラマ、テレビ東京の情報番組へ
長谷川康夫 演出家・脚本家
ひきずっていた沖雅也の影
前回取り上げた「沖雅也事件」の騒動も収まった1983年の夏から84年にかけては、つかこうへいにとって、珍しく動きの少ない静かな時期だったように思う。(【俳優、沖雅也をめぐる出来事〈上・下〉】つかこうへいが語らなかった「事件」、つかこうへいが見せた「友」への真摯な思い)
82年いっぱいで劇団を解散し、演劇の世界から足を洗う理由を、「作家に専念するため」と言い切ったつかだが、目指したはずの〝書斎仕事〟は、この間、「月刊カドカワ」での連載『つか版・女大学』と、その続編『つか版・男の冠婚葬祭入門』、そして「野性時代」に発表した小説『ハゲデブ殺人事件』だけだ。
83年11月号までの『女大学』と、翌年3月号から始まる『男の冠婚葬祭入門』は、自らの日記の形をとった(すべてフィクションだが)エッセイだし、ふたつの連載の狭間に書かれた『ハゲデブ殺人事件』は、78年の『ジャイアンツは負けない』に続く「つか田こうへいシリーズ」の第2弾である。
つまりどれも、主人公は戯画化されたつかこうへい自身で、登場するのも大半がかつての劇団員たちなど実在の人物という、同じ趣向の作品なのだ。
つかがこの時期の仕事をそれだけで押し切ったのは、たぶん作業として楽だったからだろう。つかの心中には、まだ沖雅也の件が影を落とし、どこか引きずるものがあったために、言葉は悪いが、それでお茶を濁したような気がしてならない。
この期間、僕は時折、原稿のチェックを頼まれる程度で、つかの執筆にはほとんど関わっていない。『ハゲデブ殺人事件』が、そのタイトルのもととなったキャラクター「高野嗣郎」を「つか田こうへい」の相手役とする物語だったため、その時期のアシスタントを本人が務めたのは当然だったろう。僕が『かけおち'83』以降、俳優の仕事がいくつか続き、ベタで時間が取れなかったせいもある。
それでも、つかとの週に1、2度の麻雀はずっと続いていたし、取材と称した短い旅行のようなものにもたびたび同行させられたから、頻繁に顔は合わせていた。
つかが少し元気を取り戻したのは、84年の夏も近づいた頃だ。この年、唯一の活字以外の仕事として、NHKで90分のスペシャルドラマのリハーサルが始まったのだ。

稽古場でのつかこうへい=1982年、©斎藤一男