『蒲田行進曲』『スチュワーデス物語』で人気沸騰
2022年02月05日
さて、僕が役者を辞めるに至る、その引き金となったものが、不破敏之によって引き込まれた構成作家の仕事の他に、もうひとつある。
風間杜夫のコンサートである。その演出を頼まれたのだ。
風間は1983年の夏、映画『蒲田行進曲』以降の爆発的な人気により、初めて個人でのシングル及びオリジナルアルバムなるものを世に出していた。
プロデュースと全作詞は『劇団つかこうへい事務所』の音楽監督ともいうべき大津あきら。劇団の看板女優だった根岸季衣の夫であり、この頃すでに作詞家としていくつものヒットを飛ばし、確固たる地位を築いていた。
発売元のレコード会社が、松坂慶子、風間杜夫、平田満の歌う『蒲田行進曲』(映画の主題歌でもある)を手がけた日本コロムビア。担当ディレクターも同じ柳生稔。
つまり完全につかこうへいラインでの歌手活動開始と言えるだろう。
そして10月。TBSで始まった連続ドラマによって、その人気はさらに沸騰する。言わずと知れた『スチュワーデス物語』である。
風間はその挿入歌まで担当し、それがカップリングされた2枚目のシングル曲を出したあと、新たなアルバムの製作に入る。大津あきら以下、陣容も同じだった。
そんな中、企画されたのが、3月末から4月にかけてのコンサートだ。東京、名古屋、大阪の大ホールでの、いわゆるツアーというやつである。今の人気なら成功は約束されている。現実にチケットは発売と同時に完売し、東京と大阪は、急遽1日ずつスケジュールが増えた。周りの人間たちの意気は上がった。
そしてその構成と演出を誰に託すかとなったとき、風間自身と、彼の所属する事務所「現代制作舎」の社長、豊田紀雄の頭に浮かんだのが、僕だったという。
ここでもまた、そんな経験など一度もない僕の名がなぜ上がったのか、依頼を受けても、正直「何でオレに?」だった。
「いちばん文句をつけそうなヤツを取り込んでおけば、あれこれスムーズに運んで、こっちも気持ちよくやれると思ってさ。知ってるヤツが傍にいてくれると、コンサートやるなんて照れ臭さも、少しは和らぐだろうし」
風間はそんなことを言って笑ったと思う。
確かに風間の歌手活動について、僕は何度か茶化すような言葉をかけてはいた。しかし演劇の世界とはまるで次元の違う「人気スター」となって行く彼を、一ファンとして素直に応援していたのも事実だ。
『スチュワーデス物語』に関しても、風間にはあれこれ思うところがあったようだが、僕はこの作品を初回に観てすぐ「これは行った!」とこぶしを握った。そのことは風間にも伝えたし、僕の予感のようなものは間違っていなかったわけである。
つかこうへいもまた、僕と近いものがあったのではないか。この時期の風間の派手な活躍ぶりを、つかは飲んでいる席でも、例の日記風エッセイの中でも、「風間がよ」と半分からかってみせたが、内心は「もっとやれ」とあおりながら、無条件に楽しみ、喜んでいるのがわかった。
そして結局僕は、「風間杜夫ファーストコンサート」の構成演出を引き受けることになる。
これもまた深い考えもなく、どこかワクワクするものを感じたからだ。
まず心に決めたのは、歌とトークだけのいわゆる「コンサート」だと思ってやってくる観客たちを、びっくりさせてやろうということだった。
ツアー初日の3月29日は、『スチュワーデス物語』最終回の翌々日である。ドラマに熱狂した多くの女性ファンが、生の「教官」に会うために興奮して押し寄せるだろう。そんな彼女らを幕開けで裏切り、さらにまだ大勢いるはずの「つか芝居」での風間杜夫ファンを別の意味で驚かす。
そこで持って来たのが『広島に原爆を落とす日』だった。1979年夏に上演されたこの芝居は、作品としての出来はともかく、「風間杜夫スペシャル」とキャプションが付いたように、南海の孤島に幽閉された混血の将校、ディープ山崎を演じた風間杜夫の魅力だけは、ふんだんに込められた舞台だ。
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