公共的な閉鎖空間での演奏は自粛すべきでは
2022年02月01日
何年前のことだろう。札幌のある美術館で「本願寺展」が開かれていた。札幌に出張したついでに見学に行ったが、美術館の入り口を入った時にいやな感じを覚えた。ロビーに何十脚もの椅子が並べられていたからである。しかも演奏者側にも数十脚。
国公立美術館・博物館の法人化が断行された頃からか、「ロビーコンサート」で見学者を増やそうとする動きが見られるようになった。同美術館もその流れに乗ったのであろう。
けれどもこの時の企画はひどいものだった。見学を始めてしばらくすると、館内に突如ブラスバンドの大音響がひびき始めた。しかもそれは、景気づけによく使われるオッフェンバッハの「天国と地獄」だった。
私は思わず耳を疑った。大音響それ自体が不快だったが、おまけに浄土真宗の「極楽浄土」「阿弥陀如来」に想いをはせる見学者を茶化すかのような音楽は、配慮がなさすぎると思う。展示品は美術品扱いされても、生病老死に苦しむ人には祈りの対象なのである。
もちろん「本願寺展」でなかったとしても、この企画はひんしゅくものである。
そもそも音楽は、楽しみたい人があくまで演奏会場あるいは私的な空間で楽しむべきものではないだろうか。なのに公共的な空間で、しかも美術館のロビーという閉鎖的な空間で大音響の音楽を流すのは、いかがなものか。それは、音楽に関わる最低のモラルに反するのではないか。
そのようなことは、もうなしにしてもらいたいと思うが、前記美術館が行ったのと似た残念な出来事が、最近報じられた。北海道議会の議事堂の1階に、「誰でも自由に弾ける『ストリートピアノ』が設置された」というのである。そしてそれを弾いた奏者の感想が伝えられている(朝日新聞北海道版2022年1月21日付)。
私はこの記事を信じがたい思いで眺めた。前記の吹奏楽と異なりここではピアノが話題の種だが、同じことである。いずれも固有の職務と無関係であり、かつ有無を言わせずに来訪者を音にさらす点で、本質は共通である。
日本社会の悪弊を見る思いがする。いろいろな病理が私たちの社会に巣くっているが、その一つは公共的あるいは/かつ閉鎖的な場で音(騒音)を発することへの鈍感さである。
そもそも日本社会に、どれだけ音・音楽(騒音)が氾濫しているか。
道を歩けば街頭放送が流れ、商業施設に入れば商品の説明や各種音楽が鳴り響く。駅・飛行場等の待合室では、四六時中テレビの音にさらされる。そしてレストラン・喫茶店をはじめ、いたるところで流れるBGM、あるいはテレビの音。郵便局でも、病院でも、薬局でも、ホテルでも、時には役所でも。一般市民が出入りする場所ではないが、学校でも昼休みともなれば、はやりの歌が流される、等々。
道議会の議事堂にストリートピアノ(以下SPと略記)を設置するという決定は、SP演奏を文化的な営みだとする見方に支えられているように感じられるが、関係者にそう思わせる背景にあるのは、公共的・閉鎖的な場でさえ平気で音・音楽を流すこうした悪弊であろう。
だが音は時に人を苦しめる。見たくないものがあれば、人は目をふさぐことができる。かぎたくない臭いが漂っていれば、鼻を押さえることができる。だが耳は、聞きたくないからといって音をたやすく遮断するようには、できていないのである。
耳を両手で押さえることはできる。チリ紙を耳につめることもできる。だが、音を完全に遮断することは不可能である。楽器による音は、ましてピアノや吹奏楽の音は、嫌でも私たちの耳をおそう。
SPが置かれているのは、駅、飛行場、通路などのことが多いようである。私も何度かSP演奏を見聞きしたことがある。
移動という無味乾燥になりがちの営みのさ中に、偶然音楽を耳にして気持ちがなごんだ経験は、少なくない人にあるかもしれない。けれども、それはSP演奏と通行人の間に予定調和がなりたつ場合の話である。
そうではない場合に、SP演奏をどう評価すべきなのか。
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