【45】「何日君再来」~ 中国の民主化運動を高揚させたテレサ・テンの歌声
2022年02月12日
「何日君再来」1938(昭和13)年
作詞・作曲:劉雪庵
「数奇な運命に翻弄されたラブソングが動かした『時代と政治』前編」に引き続き、数奇かつダイナミックに「時代と政治」を動かした歌「何日君再来」について書く。
「何日君再来」は、日中戦争の最中の1938(昭和13)年に、上海国立音楽専科学校生だった劉雪庵が作詞・作曲。映画の主題歌に使われて中国人たちの間で人気を博す一方、不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であった当地の日本人向けにもカバーされ、やがて“内地”にもちこまれて空前のヒットとなった楽曲である。
戦後しばらく忘れられたこの曲は1980年ごろ、「アジアの歌姫」のテレサ・テンが歌って中国の人々の間でリバイバル。自由を求める若者の間に浸透し、あの天安門事件へとつながっていく。
数奇な運命に翻弄されたラブソングが動かした「時代と政治」 前編
当時、「何日君再来」とそれをカバーした歌手のテレサ・テンが、いったいどれほどの歴史的な役割を果たしたのか。私たちが知っているのは、せいぜい一衣帯水の対岸から眺めていた遠景であった。彼の国の中で展開されたのは、そんなものではない。まさに想像を絶するほどの衝撃的な出来事だった。
遅ればせながら、その事実を私に気づかせてくれたのは、二人の中国人女性だ。いずれも文化大革命から改革開放と天安門事件にかけて、「不毛の青春時代」をおくった共通体験をもつ。一人は芥川賞作家の楊逸。もう一人は中国文学者の劉燕子である。私が二人の対談本(『「言葉が殺される国」で起きている残酷な真実』ビジネス社、2021)をプロデュースしたのが機縁だった。
劉燕子は、毛沢東と同じ湖南省の人である。文化大革命が起きる前の1965年に生まれ、1989年の天安門事件が人生の転換点となった。1991年に留学生として来日、現在は関西の複数の大学で教鞭をとるかたわら、劉暁波をはじめ言論の自由を求める内外の知識人の翻訳・紹介を精力的に行っている。
父親は北京大学在学中に反右派闘争で日記を密告され、「反党・準右派分子」とされて地方の鉱山で労働改造。さらに文化大革命では「反革命分子」としてつるし上げられ、死刑寸前までに追い詰められた。
そんな“負の出自”を打ち消そうとしてなのか、小学校に入ると毛沢東に忠誠を誓う「紅小兵」になり、『毛沢東語録』を読み、毛沢東バッジをつけ、赤い房のついた槍を手に紅衛兵の驥尾(きび)に付して「反革命」の家捜しについて行った。街では朝から「東方紅」や「毛沢東思想は沈まぬ太陽」や「インターナショナル」などの革命歌が、銅鑼や太鼓の響きとともに流れていた。歌といったらそれしか教わらなかった。
劉燕子がテレサと「何日君再来」の存在を最初に知ったのは、1980年に入り、中国と台湾が対峙する金門島から、台湾側が巨大なスピーカーでテレサの歌声を流し、風船にテレサのテープを付けて飛ばして宣伝工作をしているから警戒せよというニュースであった。
劉の田舎にまで風船が飛んでくることはなく、伝聞だけだったが、それは劉が子供時代に挿絵付き冊子「小人書」によって受けた「台湾解放」のための洗脳教育をいやでも思い起こさせた。
1950年代、中国と台湾が金門島の争奪をめぐって激戦を繰り広げる中で、人民解放軍の軍用電話のケーブルが砲火を浴びて切断されたことがあった。そのとき数人の少年たちがケーブル代わりに手と手を結び、電流が通ったときに身体がしびれても歯を食いしばって、「米帝の走狗の蒋介石をやっつけろ」との決意を新たにしたという武勇伝である。これは、劉たち天安門世代なら誰もが子供時代に脳裏に刷り込まれた共通の記憶であった。
そんな劉がテレサの「何日君再来」を自らの耳ではじめて聞いたのは、それが「黄色歌曲」として発禁にされていた1982年の高校生のときだった。クラスの同級の女子が香港の親戚から手に入れたカセットレコーダーとカセットテープで、テレサ・テンの歌声を流して聞かせたのである。
その子の姉は、当時は富と繁栄と自由の象徴とされた香港の男性と結婚していて、指には大きな金の指輪がはめられていてまぶしかった。ただ、それよりも劉にとって衝撃的だったのは、中国共産党から“退廃的”と断罪された「何日君再来」であった。
娯楽に飢えていたのだろう。劉だけでなくクラスメートたちは、たちまちテレサの“退廃的”で甘美な歌声のとりこになった。
もう一度、いや何度でも聴きたい。そう思った劉は、同級生の宿題を引き受けて貸しをつくり、テレサの歌声を長時間、何度も聞くことができた。同級生の家では、母親から自慢げに見せられた香港のカラー写真、ワンピースの服、口紅なども目にして、心をときめかせた。
しかし、それは当局による「ブルジョワ自由化」「精神汚染」反対キャンペーンを冒す危険行為であった。処罰の対象は提供者にもおよび、同級生の母は、香港からカセットレコーダーやテープを持ち込み、自宅でカーテンを閉めて、社交ダンスのパーティを行ったことが1983年の「厳打(厳重に迅速に犯罪を取り締まるキャンペーン)」にひっかかり、一年の「労働改造」の処罰を受けたという。
もう一人の“証言者”は楊逸である。楊は劉燕子より1歳上で、旧満州(東北部)のハルビン生まれ。文化大革命で一家全員がマイナス30度の酷寒の地へ下放された体験から、「早くこの国から出たい」と天安門事件の2年前の1987年、横浜に住む伯父を頼って日本に留学。2008年に日本語を母国語としない初の芥川賞作家となった。
楊逸は劉燕子との対談の中で、初めてテレサ・テンの歌に出会ったときの衝撃について、「体がムズムズする感覚をおぼえた」といい、それを芥川賞受賞作である『時が滲む朝』の登場人物たちに仮託したと語っている。
ちなみに、『時が滲む朝』には、楊の分身とも思われる主人公の浩遠が、同じく大学新入生の志強とともに、先輩からテレサ・テンのカセットテープをはじめて聞かされたときの衝撃の心象が、次のように活写されている。
「ゴックン。歌にのめり込む志強から唾を飲み込むような音を感じ、浩遠も我慢の限界に達し、流れる甘く切ない歌声と一緒に、口の中の全てを思い切り飲み込んだ。唾は甘泉の如く、喉から全身に巡り、骨にまで泌み込んで、体中にちくちくしていた青々しいがさつな棘のような何かをやさしく撫で、無骨な青年は瞬く間に食事を堪能して一服しようとする子猫にでもなったかのように、目がとろりとした。
(略)浩遠も恥ずかしくなって志強を見ると、志強は顔から頸にかけて真っ赤になっていた。愛やら何やらの、腐敗した資本主義の情調に危うく腐食されるところだった。浩遠は逃げるようにスピーカーから離れ、ベッドからいい加減に本を一冊取って、部屋を出ようとした。志強も焦って浩遠の腕につかまって、そそくさとついて出た」
このシーンで描かれている主人公たちをどぎまぎさせる歌は「月亮代表我的心」と思われるが、先輩のカセットテープの中には当時の若者たちをもっとも熱狂させた「何日君再来」も入っていたはずであり、それらの禁断の歌が主人公たちをとりこにしていくのに時間はかからなかった。
「テレサ・テンをはじめとする香港や台湾の流行歌手の歌、みんなそれぞれ独自のルートで入手できるテープを持ち寄って聴く。外に漏れないように、音量をみんなの耳に届くぐらいまで下げ、全員が布団に入って息を潜め、高鳴る胸を抑えつつ、ひと時を享受する。三十分が終わると、眠れない長い長い夜に、何度となく甘いメロディを噛みしめて、眠ろうと頑張る。そしてそのほんのりとした幸せな気分は夢の中まで続いていく」
こうして禁断の歌との出会いが機縁となって主人公たちは「文学サロン」をつくり、民主化運動に目覚め、授業ボイコットやハンガーストライキを打ち、ついに天安門広場でのデモへと参加して大いなる挫折を味わうことになるのである。
劉燕子と楊逸の証言からもうかがえるように、天安門世代にとって“テレサ体験”はかくも強烈だった。
彼らの体験に比べると、私たちベトナム反戦世代の新宿西口フォークゲリラ体験など遠く足元にも届かないし、アメリカのフラワーチルドレンの反戦フォークソング体験も、さらには南アのアパルトヘイト撤廃運動に大きな影響をあたえた「明日に架ける橋」体験も、チェコのビロード革命をささえた若者たちの「へイジュード」体験ですらも、その衝撃力においては、及ばないであろう。
裏をかえせば、「退廃的黄色歌曲」と断罪されたテレサの歌声がなかったら、中国の民主化運動の高揚はなかったといっても過言ではない。
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