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「音のない世界」からオリンピックを見る

「国家」の声援というノイズを消して、ともに。

古川日出男 小説家

画面越しか、現場か――ライブ感のありかは

 北京オリンピックの開会式のライブ中継を観ながら、このテレビの画面越しの視聴と、現地の国家体育場(通称「鳥の巣」)で観客席にて目にして、聞いて、味わうのとでは、いったいどっちが「スペクタクル」なんだろうなと考えた。

 もちろん、現場にいることが最高に臨場感をおぼえるに決まっている、と即座に断定することもできる。ただ、随所に挿入される純粋な「プロモーション映像みたいなやつ」は、会場にいるよりも画面の前にいるほうが訴えかける方向性を備えているのではないか、と感じさせる。これは今回の北京オリンピック開会式に限ったことではないのだが。もしかしたら、会場の片隅でその「プロモーション映像みたいなやつ」をボウッと眺めている瞬間が、いちばんスペクタクル度が下がる瞬間なんじゃないか、とも想像されたりする。

 それはしかし、開閉会式といったセレモニーにだけ適用されるような話ではない。スポーツの試合そのものにも、そうした要素がいまや強烈にあるのであって、たとえば競技会場にいて、選手たちの活躍を眺める、というのは、言うのはたやすいけれども行なうは困難なのであって、それが可能なポジションに場所取りをするにはどうしたら、とか、何メートルも何十メートルも離れていたら現場にいたって選手のパフォーマンスの細かいところは見られるはずがない、とか、結局、複数台のカメラを駆使した映像のほうが、この現代にはライブ感が出せるんじゃないか、とか、そうした思いを抱いてしまう。

 要するに、純粋に「競技を観察」しようとしたら、その場にいないほうがベターなポジションを取れる、ということだ。かつ、それぞれの試合のスペクタクルも味わえる。

 私はもちろん、こんなことを書いたら「お前はスポーツ観戦の醍醐味が全然わかっていない」と即座に反論されるだろうな、と予想している。熱狂というものは現場にあって、その熱狂と一体化することがすなわちスペクタクル(やそれに類する圧倒的な高揚)なんだぞ、と。そう言われたら、私も「なるほど」とうなずく。けれども、昨夏の東京オリンピックが無観客で行なわれて、また北京の冬季オリンピックの開会式も全部は埋まっていない会場で行なわれているし、一般向けのチケット発売もないとの現実に触れる時に、そもそも現場で観戦できないスポーツ大会の、そのスペクタクルはいったいどこにあると見なすのが妥当か、とは考えてしまう。

拡大北京オリンピック開会式の一場面。横一列で人が歩くのに合わせて、フィールドに写真が現れた=2022年2月4日、北京・国家体育場


筆者

古川日出男

古川日出男(ふるかわ・ひでお) 小説家

1966年生まれ。1998年、長篇小説『13』でデビュー。『アラビアの夜の種族』(2001年)で日本推理作家協会賞と日本SF大賞を受賞。『LOVE』(05年)で三島由紀夫賞、『女たち三百人の裏切りの書』(15年)で野間文芸新人賞、読売文学賞。他に『サウンドトラック』(03年)、『ベルカ、吠えないのか?』(05年)、『聖家族』(08年)、『南無ロックンロール二十一部経』(13年)など。11年、東日本大震災と原発事故を踏まえた『馬たちよ、それでも光は無垢で』を発表、21年には被災地360キロを歩いたルポ『ゼロエフ』を刊行した。『平家物語』現代語全訳(16年)。「群像」で小説『の、すべて』連載中。「新潮」(2022年4月号)に戯曲『あたしのインサイドのすさまじき』を発表した。新刊『曼陀羅華X』(新潮社、3月15日刊行)。音楽、演劇など他分野とのコラボレーションも多い。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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