松澤 隆(まつざわ・たかし) 編集者
みすず書房で出版営業、表現研究所(現・小学館クリエイティブ)で編集全般、春秋社で書籍編集に従事し、その後フリー。企画・編集した主な書籍は、佐治晴夫『からだは星からできている』『14歳のための時間論』、小山慶太『星はまたたき物語は始まる』、鎌田浩毅『マグマという名の煩悩』、立川談志『世間はやかん』など(以上すべて春秋社刊)。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
コロナ禍の外出自粛を経験して以降(2022年も新たな懸念が消えませんが……)、遭遇したらつい手に取りそうな本を求めて、未知の書店に足を運びたい衝動が、昂じている。もちろん、手前勝手な衝動。小売店さんには、衝動や感傷とは無縁の深刻な現実が、コロナ禍の前から続いているのだ。その中で、ツイッターを通じ或るお店を知った。東京・板橋区の常盤台にある≪本屋イトマイ≫。
当初、東武東上線屈指の好感度高き住宅街という立地に、やや気後れする。だが、お店のホームページからは、穏健な高潔さが香りたち、冒険心が刺激された。
「冒険」なんてみだりに使わない文字も、偶然ながら常盤台の記憶に結びついている。90年代の一時期、小学館の子会社の一員として伝記漫画シリーズの立ち上げに加わり、数点の担当としても格闘した。親会社の編集長は植村直己さんを深く尊敬し、エジソンやキュリーといった定番の偉人の列に、日本の冒険家を加えた。常盤台は、植村氏のご家族にお会いして、お話を訊いた場所である(若かった自分はずっと緊張していましたが)。
池袋から5つめの「ときわ台」駅に降りたのは、それ以来。北口すぐの行程に、難路はない。ステージへと続くような内階段を昇った2階全体が≪本屋イトマイ≫。段上の背後にカフェスペース、左手の向こう側が厨房とレジ、正面から奥に書棚が並ぶ。壁を埋めた棚と、間の床を仕切る棚とのバランス。新刊を面出ししている小ぶりの棚ともども、書棚相互の好配置が生むリズムに、心が弾む。
話題の小説やエッセイがある。刮目すべき人文・社会科学系の単行本がある。優しい絵本も尖がった美術書も、気になる文庫も月刊誌も置かれている。親しみやすい。でも、緩みのない選書、創意が響く配列。本と本とが奏でる多彩な旋律。棚を眺めながら一周すると、終りのないメビウスの輪のような一体感に包まれる。心地よい。
本はどこで読んでも同じ、探すなら大型店かネット書店でなければ、という方に反論はしない。しかし、好ましい書肆(しょし)の選書に導かれ、直ちに座れる席を得て、芳ばしい珈琲を友に繙く……そんな、とうに忘れ去ったはずの感興が≪本屋イトマイ≫の空気で蘇る。仕事上の切迫した必要からでも、信じている組織への義務からでもない読書。突き上げてくる何かへの期待。「山頂」かもしれないし「島影」かもしれない。「花の面影」かもしれないし「人の気配」かもしれない。ここはそんな、かたちを伴わない何かへの期待感を可視化してくれるような場所なのだ。ホームページに、こうある。
<店名の由来は「お暇します」から取ったものです。プライベートでもオフィシャルでもない「暇〔いとま〕」を、本と珈琲と静かな空間の中で各々ゆっくり過ごしていただき、それぞれに豊かな時間が訪れたらいいな、という願いのもとに作られました>
興奮を抑えつつ、店主の鈴木永一さんにお話をうかがった。
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