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『ラ・マンチャの男』最終章【上】 異色のミュージカル53年の歩み

東宝ミュージカル黎明期の挑戦

山口宏子 朝日新聞記者

 松本白鸚が主演するミュージカル『ラ・マンチャの男』。初演から53年、主人公を一人で演じ続けてきた白鸚が2022年2月、そのファイナル公演を迎えた。各種の資料をひもときながら、その歩みを振り返り、六代目市川染五郎、九代目松本幸四郎、そして二代目松本白鸚と三つの名前で「見果てぬ夢」を追い続けてきた俳優と作品の魅力を考える。(敬称略)

 ※公演は東京・日生劇場で2月6~28日の予定だったが、関係者にコロナ陽性者見つかり、8~12日、17~24日の公演は中止(2月21日現在)。

ミュージカル俳優、染五郎の誕生

 セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』を下敷きにしたブロードウェイ・ミュジーカル『ラ・マンチャの男』が日本で初めて上演されたのは1969年4~5月、東京・帝国劇場だった。主演した市川染五郎(現・白鸚)は26歳だった。

 時は、日本のミュージカル黎明期である。

 東宝の演劇部門を統括していた菊田一夫(1908~73)の主導で、本格的なブロードウェイ・ミュージカルが日本で初めて上演されたのは1963年、江利チエミ主演『マイ・フェア・レディ』だった。

菊田一夫=1964年撮影
 続く2作目は65年『王様と私』。宝塚歌劇出身のスター、越路吹雪(1924~80)が演じたヒロインの相手役である「王様」に起用されたのが、当時、22歳の染五郎だった。

 染五郎はその頃、父の八代目松本幸四郎(1910~82)、弟の中村萬之助(二代目中村吉右衛門、1944~2021)とともに東宝に所属していた。菊田は、染五郎の音楽の素養に注目し、「王様」に抜擢した。しかし、歌舞伎俳優に初めてのミュージカルで大役を任せるのは〈実は菊田にとっては胃が痛くなるような大博打だったのである〉と、後に演劇評論家・安達英一が記している(1999年『ラ・マンチャの男』公演パンフレット)

 だが、その心配はすぐに払拭された。クラシック歌手に指導を受けた染五郎は、子役時代に共演した祖父・初代吉右衛門の発声法を思い出し、〈クラッシックと歌舞伎に共通していることに気づき、いち早く声量豊かなミュージカル歌唱法を身につけたのである〉(同)

 英国作品『心を繫ぐ6ペンス』(66、67年)の主役、帝劇『屋根の上のヴァイオリン弾き』初演(67年)の仕立屋の青年モーテル役と、続けてミュージカルの舞台に立った染五郎が、その次に出会ったのが、生涯の当たり役となる『ラ・マンチャの男』である。

複雑で深遠、異色のミュージカル

 明るく楽しいミュージカルコメディーが主流だった時代に、『ラ・マンチャの男』は異色の舞台だった。いや、ミュージカルで様々なテーマや手法が試みられている現代においても、これほど複雑な構造と深いテーマを持つ作品は珍しい。

 セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』を踏まえているが、物語をそのまま芝居にしたわけではない。

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