ただ一人英語で演じる重圧乗り越え、ライフワークに
2022年02月22日
※『ラ・マンチャの男』最終章【上】から続く
『ラ・マンチャの男』をロングラン中のニューヨーク・マーティンベック劇場で開催される「ドン・キホーテ国際フェスティバル」に、主役の一人として招かれたのだ。
演劇評論家、安達英一の記述(1999年公演パンフレット)によれば、ブロードウェイで、英語で演じるという要請に、「そりゃムリだ。本当のドン・キホーテになってしまう」と即座に反対した東宝重役もいたという。しかし、染五郎の出演の決意は固かった。
1969年10月20日、詳細を発表する記者会見が開かれた。その内容を報じた朝日新聞の記事(1969年10月21日夕刊)によれば、このフェスティバルは、世界18カ国で上演されていた『ラ・マンチャの男』の主役俳優の中から選ばれた「ベスト8」が、交代でブロードウェイの本興行に出演するという企画。染五郎は英国、ドイツ、フランス、チェコなどのベテラン俳優に交じり、1970年3月から5月まで出演する。会見で染五郎は、「初日までの数カ月は、おそらく私の俳優生活の中でも最もつらい日々になるでしょう。でも、いまは日本人の役者として恥ずかしくない演技を見せたいと思う気持でいっぱいです」と語っている。
少し先回りになるが、映画やジャズ、ミュージカルの評論家で、映画ポスターのデザインなどでも知られる野口久光(1909~94)は、ニューヨークでこの公演を観た感動を朝日新聞に寄稿した(1970年5月17日朝刊)。その中で、現地で会ったプロデューサーのアルバート・W・セルデンから、〈帝劇で染五郎を見て彼の芸にほれこみ、各国俳優の交代出演のプランの実現を決心した〉と聞いたことを伝えている。
ブロードウェイでは完璧な英語での演技が要求される。先の安達の原稿によれば、父の八代目松本幸四郎がニューヨークで歌舞伎を指導した時の教え子だった俳優ドン・ポムスが日本に滞在中で、指南役を引き受けた。単に発音を直すのではなく、せりふを英語で自在にしゃべれるようにして、最終的には英語で発想できるように、という猛訓練で、染五郎は英語漬けの日々を送ったという。
1970年1月、染五郎は結婚したばかりの妻・紀子とともにニューヨークに赴いた。開幕前に現地で取材した朝日新聞「ひのき舞台で実力ためす」という記事(1970年2月2日夕刊)は、「正真正銘の実力の世界で、べたべたしたところがないから、いっそ気持がいいです」「失敗したっていいと思っているんです。ぼくはまだ27歳だからいくらでもやり直しがききます」と、染五郎の若々しい挑戦者としての言葉を伝えている。
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