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50年目のあさま山荘と「それからの左翼」──若者たちは戦後左翼にも学べ

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1972年の記憶

 1972年2月。その日は早稲田大学の入試だった。午前中の科目を済ませ、学生食堂で昼食を摂った。食堂のテレビには、あさま山荘の攻防戦が映し出されていた。50年前のことなので、籠城から何日目だったかは覚えていない。カレーライスか何かを食べ、午後の試験を受けるために、教室へ戻った。この時点では、まだ「リンチ殺人」は発覚しておらず、テレビ報道は大捕物の高揚の中にあった。

 山岳ベースで行われた「リンチ殺人」の全貌が明らかになった春、1年浪人した私はようやく慶應大学に入学した。生まれて初めてひどい花粉症に悩まされていた。入学してみると何をしていいのか見当が付かず、渋谷や吉祥寺のジャズ喫茶をハシゴして時間をつぶした。

 その半ば茫然自失の時期が終わり、学内の風景が見えてきたのは9月になってからだ。次年度からの学費値上げに反対する運動が始まっていた。集会に顔を出してみると、各学部からそれなりの人数が集まっていた。予測していたことだが、その顔ぶれのほとんどが高校時代になんらかの運動にかかわった連中だった。中には、上野高校や立川高校からやってきた高校全共闘のスターもいた。

 当時の日吉キャンパスは、政治党派の空白地帯だった。私たちは各学部の自治会を再建し、「学費値上げ白紙撤回」を掲げて、学生大会でストライキ権を確立、実行部隊として「ストライキ実行委員会」をつくった。今も不思議に思うのは、すでに学園闘争の波が引いていた1972年に、ノンポリの多いあの大学で、そこそこの盛り上がりがあったことだ。ストは数カ月に及び、学年末試験まで「粉砕」してしまった。

 しかし私は、この“遅れてきた闘争”にどこか居心地の悪い思いを抱いていた。幕の引かれた芝居と知りながら衣装をつけて演じ続けているような感覚と言ったらいいだろうか。そう思って周りを見ると、仲間たちも脚本通りに科白や所作をこなす役者みたいだった。

大幅な学費値上げに反対して、ストライキを続けていた慶応大学三田学生自治会。学生大会の投票でスト解除を決め、喜ぶ学生たち 1973年2月12日、三田キャンパス拡大慶応大学の学生大会でストライキ解除を決め、喜ぶ学生たち=1973年2月12日、三田キャンパス

筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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