2022年02月28日
2月28日、陥落から50年──。
長野県・軽井沢、河合楽器の保養所、あさま山荘に、管理人の妻を人質として、銃や爆弾を持った連合赤軍兵士5人が立て籠もったのが、1972年2月19日から28日まで。それから、半世紀が経った。
加藤倫教、岩田平治、植垣康博、前澤辰昌ら、連合赤軍元兵士4人にインタビューして、『2022年の連合赤軍──50年後に語られた「それぞれの真実」』(清談社Publico)を私は上梓した。
71年の12月21日、群馬県の榛名山の山小屋で結成された連合赤軍は、約30名の小軍隊だった。それが5名になってしまったのは、逮捕者や逃亡者が出たほか、「総括」の名の下に12名の同志を死に至らしめていたからだ。
最初のうちの「総括」は、机に向かって考えを深めノートに記していくというものだった。だが「総括」を求められていた、加藤能敬と小嶋和子は、もともと恋人だった。山小屋の外でキスしているところを、森に次ぐ連合赤軍ナンバー2の永田洋子に見つけられた。新党結成の場が穢された、と永田はいきり立った。
指導の一環として、殴ることを提案したのは、森である。「殴ることの意味を確認させてくれ」と疑義を呈したのは、京都大学院生で理論肌の山田孝だった。殴って気絶させ、気絶から覚めた時に、生まれ変わって共産主義化を受け入れるはずだ、として森は、その疑義を退けた。殴ることは本人への援助だとして、すべての兵士に暴行への参加が求められた。
その時の気持ちを、拙著でのインタビューで元兵士たちは語った。
「(総括中に)小嶋とキスしたとかは、『ふざけんじゃねえ』みたいな気持ちは持ったね。だからって、殴れっていうのは、またちょっと違うんだけど。(中略)『この野郎、一発ぐらいぶん殴ってやる』みたいな気分も最初はやっぱりあったよね」(前澤辰昌)
「やらなきゃ自分がやられる、という話でもない。自分のなかで思い描いた革命戦士というのは、“対幻想”である恋人だとか家族だとかへの、自分のいろんな思いを抹殺していくというか、抑圧していかないといけないんだって考えたわけです」(岩田平治)
小嶋和子と加藤能敬は、逃亡の意思ありとして縛られ、次に尾崎充男に総括が求められ、暴行が加えられる。なかなか気絶しない彼は殴り続けられているうちに、12月31日、絶命した。
森は「総括できなかった、敗北死だ」と規定する。死の責任が本人に帰せられたのだ。
兄の能敬の死をも目にすることになった加藤倫教はこう語った。
「敗北死として受け止めるしか、自分のなかでも納得できる理由がない。死を正当化するしかけではありますけど、僕らも乗っかっていったのは、正当化する論理を受け入れていかなきゃ、そこにいられなかったからです」
敗北死という言葉に、すがっていく心理があった。客観的に見れば陳腐とも言える言葉だが、森には必要な場面で発する瞬発力があった。敗北死という言葉を思いつかず、おろおろしていたら、森の権威は失墜し、事態はまったく違う展開を見ただろう。だがそうならず、30人ほどの小集団で、生死を左右できる絶対権力者の位置を、森は得た。そうして、総括による死は続いた。
森の口にする理論が信じられず「“敗北死”というのも、全然こじつけだ」と看破した前澤辰昌は、3度目のチャンスで逃亡した。一方、理論は信じるが「もう自分はついていけない」と思い、岩田平治は逃亡する。
職場や学園を捨ててその道を進んできた彼らにとって、逃亡の決断は並大抵のことではない。連合赤軍兵士として逮捕まで至った、植垣、加藤。自らの意志で連合赤軍であることを止めた、前澤、岩田。その両方を同じ重さで取り上げたのも、拙著のコンセプトの1つだ。
総括による死が続く中、「死は平凡なものだから、死を突きつけても革命戦士にはなれない。考えてほしい」と山田孝は再び、森に疑義を呈する。「死の問題は革命戦士にとって避けて通ることのできない問題だ。したがって、精神と肉体の高次な結合が必要である」と森はそれを退ける。
山田はやがて、都市での活動の際に銭湯に入ったことをきっかけに総括にかけられ、死に至った。
森の言葉はまるで論理的ではないのだが、言葉の瞬発力で、その場その場を乗り切っていく。連合赤軍ナンバー3の坂口弘は、殴ることへの躊躇があったが言い出せなかった、と獄中に入ってからの手記で記している。
連合赤軍を元に、長編マンガ『レッド』を描いた、マンガ家の山本直樹も、
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