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『笑っていいとも!』の代名詞、「テレフォンショッキング」という発明

[2]タモリと観客の共同作業で生まれた「友だちの輪」

太田省一 社会学者

 前回、異端の存在だった「密室芸人」タモリが、知的笑いの担い手として『笑っていいとも!』の司会に抜擢された経緯にふれた。今回は、手探り状態で始まった『いいとも!』がどのようにして軌道に乗ったのか、特にここでは、番組の代名詞的コーナー「テレフォンショッキング」を中心にみていきたい。

「いいともー!」が流行した理由

フジテレビ系『笑っていいとも!』の収録風景=1993年拡大『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のタモリさんと観客との「~いいかな?」「いいともー!」のやりとりは流行語になった=1993年

 人気番組には、往々にして番組発の流行語が生まれる。おなじみの「いいともー!」も、そのひとつだ。

 『いいとも!』開始から2か月ほど経った頃、タモリとスタッフは、新宿・歌舞伎町でサラリーマン風の男性が、「課長! もう一軒いってもいいかな?」と叫び、それに課長が「いいともー!」と応える場面に出くわす。最初は3か月だけという約束で司会を引き受けたタモリだったが、それ以降そのことは口に出さなくなったという(横澤彪『犬も歩けばプロデューサー──私的なメディア進化論』、112頁)。

 この話でもわかるように、「いいともー!」の強みは、誰でも使いやすく、みんなが参加できるところにある。番組のオープニングで、タモリが「それでは今日も最後まで見てくれるかな?」と言ってマイクを客席に向けると、観客が一斉に「いいともー!」と叫ぶ。「コール&レスポンス」の要領で、色々な場面で応用が利く。

 その象徴的場面が、1983年の『NHK紅白歌合戦』にあった。その年、タモリは総合司会。NHKのアナウンサー以外の総合司会は、史上初のことだった。

 そして番組の冒頭、タモリは、これからいよいよ歌合戦というとき、「そろそろ始めてもいいかなー?」と客席に呼びかけた。観客席からも「いいともー!」の声が。国民的番組『紅白』でのこの“歴史的出来事”は、「いいともー!」がすっかり世の中に浸透したことを物語っていた(ちなみにこれはアドリブで、タモリは、「いいとも」コールをやったら20万円もらう約束を番組プロデューサー・横澤彪としていた。横澤彪『バラしたな!ハイざんげ──テレビおじさんオフレコ日記』、48-52頁)。


筆者

太田省一

太田省一(おおた・しょういち) 社会学者

1960年、富山県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビ、アイドル、歌謡曲、お笑いなどメディア、ポピュラー文化の諸分野をテーマにしながら、戦後日本社会とメディアの関係に新たな光を当てるべく執筆活動を行っている。著書に『紅白歌合戦と日本人』、『アイドル進化論――南沙織から初音ミク、AKB48まで』(いずれも筑摩書房)、『社会は笑う・増補版――ボケとツッコミの人間関係』、『中居正広という生き方』(いずれも青弓社)、『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント 』(光文社新書)、『ジャニーズの正体――エンターテインメントの戦後史』(双葉社)など。最新刊に『ニッポン男性アイドル史――一九六〇-二〇一〇年代』(近刊、青弓社)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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