[2]タモリと観客の共同作業で生まれた「友だちの輪」
2022年03月03日
『笑っていいとも!』40年──「密室芸人」タモリが抜擢された理由
前回、異端の存在だった「密室芸人」タモリが、知的笑いの担い手として『笑っていいとも!』の司会に抜擢された経緯にふれた。今回は、手探り状態で始まった『いいとも!』がどのようにして軌道に乗ったのか、特にここでは、番組の代名詞的コーナー「テレフォンショッキング」を中心にみていきたい。
人気番組には、往々にして番組発の流行語が生まれる。おなじみの「いいともー!」も、そのひとつだ。
『いいとも!』開始から2か月ほど経った頃、タモリとスタッフは、新宿・歌舞伎町でサラリーマン風の男性が、「課長! もう一軒いってもいいかな?」と叫び、それに課長が「いいともー!」と応える場面に出くわす。最初は3か月だけという約束で司会を引き受けたタモリだったが、それ以降そのことは口に出さなくなったという(横澤彪『犬も歩けばプロデューサー──私的なメディア進化論』、112頁)。
この話でもわかるように、「いいともー!」の強みは、誰でも使いやすく、みんなが参加できるところにある。番組のオープニングで、タモリが「それでは今日も最後まで見てくれるかな?」と言ってマイクを客席に向けると、観客が一斉に「いいともー!」と叫ぶ。「コール&レスポンス」の要領で、色々な場面で応用が利く。
その象徴的場面が、1983年の『NHK紅白歌合戦』にあった。その年、タモリは総合司会。NHKのアナウンサー以外の総合司会は、史上初のことだった。
そして番組の冒頭、タモリは、これからいよいよ歌合戦というとき、「そろそろ始めてもいいかなー?」と客席に呼びかけた。観客席からも「いいともー!」の声が。国民的番組『紅白』でのこの“歴史的出来事”は、「いいともー!」がすっかり世の中に浸透したことを物語っていた(ちなみにこれはアドリブで、タモリは、「いいとも」コールをやったら20万円もらう約束を番組プロデューサー・横澤彪としていた。横澤彪『バラしたな!ハイざんげ──テレビおじさんオフレコ日記』、48-52頁)。
この「いいともー!」は予め番組が決めていたやり取りだが、一方、思わぬかたちで生まれ、流行したフレーズもある。「テレフォンショッキング」の「友だちの輪」である。
繰り返すまでもないが、「テレフォンショッキング」は、芸能人や著名人の日替わりゲストがタモリとフリートークを繰り広げるコーナー。その日のゲストがその場で電話をかけ、リレー方式で次の日のゲストを紹介する。唯一、1982年の初回から2014年の最終回まで続いた看板コーナーである。
初回のゲストは、タモリが大のファンであることを公言していた歌手の桜田淳子。そもそもはアイドルの伊藤つかさにタモリが会いたいという目的で始まったというが、(『週プレNEWS』2014年3月10日付記事)それは1985年7月8日に実現。以降は、タモリ憧れの吉永小百合につながることが目的になった(結局、それは達成されなかった)。
この「テレフォンショッキング」で恒例になったのが、「友だちの輪」だった。誕生のきっかけは、1982年11月17日、ミュージシャンの坂本龍一が出演したときのことである。
この日、JALのマークの話題になった。当時のマークは、鶴の広げた翼が両端で接し、丸をつくるようなデザイン。坂本龍一は、その意味が「世界に広げよう、友だちの輪」なのだと言い、
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