今、パゾリーニを見る意味~『テオレマ』『王女メディア』の公開にあたって
古賀太 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)
映画的な記憶からではなく可能性を追求

『テオレマ』を演出中のピエル・パオロ・パゾリーニ監督(右)
まず、パゾリーニは1961年に初めて監督作品『アッカトーネ』を公開した時、すでに39歳だった。先に挙げたほかの監督たちは、俳優としてのキャリアの長いデ・シーカを除くと20代から30代半ばにデビューしている。パゾリーニは『アッカトーネ』まではイタリアでは詩人、小説家として知られていた。1942年に『カザルサ詩集』を自費出版して以来、初めて映画を撮るまでに10冊以上の詩集と2つの小説を発表している。
もっと重要なのは、映画を撮るにあたって、これまでの映画に学んだり、参考にしたりした様子が感じられないことだ。まず、彼の映画にはいわゆる「映画通」が好みそうな映画らしい場面がない。細かく組み立てられた脚本もなければ、逆に即興演出もないし、ドキュメンタリー的な撮影もない。「華麗なカメラワーク」も、意表を突く編集もない。実は私は1999年にユーロスペース配給で14本の作品を全国で上映した時に公式パンフの編集をしてシンポジウムも企画したが、若き映画狂だった私には彼の映画は本当はどこかピンと来なかった。
ところが今見て見ると、まさにそこがおもしろい。映画というメディアに初めて触れた文学者が子供のように映画の可能性を追求していることを素直に見ることができる。映画的な記憶からではなく、直感的に人間の顔に迫り、そのさまざまな表情の豊かさをきちんと見せる。そして心に直接届くような音楽を組み合わせる。