大工原章さんとの再会を切望していた大塚さん
大塚康生さんは新人時代に指導を受けた先輩アニメーター大工原章さん[1917年〜2012年]を大変尊敬していらした。
大工原さんは森康二さん[1925年〜1992年]と共に東映動画(現東映アニメーション)の創設を支えた古参アニメーターであり、初期長編を主力で支えた功労者だ。
日本初のカラー長編アニメーション『白蛇伝』(1958年)では一人で全編の半分以上の原画を描き切り、『少年猿飛佐助』(1959年)では演出と原画を兼任した。晩年はスタジオカーペンター代表としてテレビシリーズにも関わった。いわゆる「アニメブーム」が脚光を浴びるようになった1970年代末には既に第一線を退かれていたこともあり、大工原さんの取材記事や資料は極端に少ない。

左から大塚康生さん、大工原章さん、森康二さん=1959〜1960年頃、東映動画にて、大塚さんのご家族提供
大塚さんの特徴であるダイナミックなアクション作画は、師である大工原さんの作画を独自に発展させた側面がある。大塚さんは「大工さん(大工原さんのニックネーム)が試みた奥から手前に人物を振り回す“深い空間”の作画は、平面的な横移動を多用しがちな日本のアニメーションにおいて革新的なものだった」──とよく語っていらした。
私は頻繁にお二人のご自宅でお話を伺う機会に恵まれた。その成果の一部は拙著『日本のアニメーションを築いた人々』(2004年)にまとめたが、以降も親しくお付き合いをさせていただいた。
大塚さんは、度々「自分が今あるのは大工さんのお陰。その御恩を忘れたことはない」と語っていた。大塚さんは大工原さんとは何十年も会えておらず、再会を望んでいらした。私は大塚さんから「お尋ねしてよいかどうかを大工原さんに打診して欲しい」と頼まれた。大工原さんは晩年ご体調が優れず、ご自宅で療養されていた。大塚さんはそれを気遣い、直接の連絡を避けていた。何度もご自宅前まで行かれたものの、引き返していたそうだ。

大塚康生さん(左)と大工原章さん=東映動画にて、大塚さんのご家族提供
私は早速大工原さんに提案した。しかし、大工原さんの返事は意外なものだった。
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