どうして「怒」と「涙」だけ? 東京で暮らす「当事者」の私
2022年03月11日
11度めの3月11日が訪れる6日前に、小説家である私は詩人の和合亮一さんと、福島県の会津地方にある県立博物館で対談をしていた。
このイベントは直前に無観客になることが決まって、参加は「オンラインのみで可能」となってしまったのだけれど、そのことは結局さいわいして、国内のみならず国外からもリアルタイムで見てもらえた(フランスや中国から視聴してくれる方がいた)。
イベントは「ふくしまを書く」と題された。和合さんにせよ私にせよ、東日本大震災がらみの作品(なかでも初期のもの)は、ある種の〈壮絶〉な言葉に満ちている。だから、そんな二人が「ふくしまを書く」ことを語るのだから、これはもう、さぞ〈シリアス〉な姿勢を徹底するのだろう、と予想されていたに違いない。
私たちは二人とも福島生まれで、震災前にも対談をしていて、当然ながら震災後も、幾度か顔を合わせて、いろいろ話をしている。そんな私たちは、イベント開始直後から、思いっきり本気で語り合って、ボルテージを上げて、そして、(ここが肝要なのだが)そうであるからこそ始終笑い声を発して、ほとんど漫才コンビのような感触もあった。
私は、壇上にありながら、そのように自分で感じていた。あれほど真剣に〈爆笑〉してしまうライブのステージは、あまり経験したことがない。和合さんはボケるし、私もついつい突っ込んでしまう。そんなことが可能だったのは、私たちが福島の「自然体」というものを出せたからなんだろうな、と顧みて思う。東日本大震災の〈風化〉に抗うために深い話をすることと、それを(憤りなどの感情とは無縁の形で)笑いながらすることは、当然ながら両立する。
どうして被災地のニュースが流れると、そこにいる〈被災者〉たちは暗い顔ばかりしていて、とりわけ映像のハイライトでは「怒る」「涙する」ということをするのか? そういう映像がまさにハイライトとして〈選択〉されているからだ。
このことは、善意にもとづいている。
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