2022年03月11日
“最小によって最大を表現すること”を標榜したロベール・ブレッソン監督(仏、1901~1999)。そのモットーどおり、誇張された演技、説明的なセリフ、さらにはBGMを映画には不要な“贅肉”であると見なしたブレッソンは、それらを自作から極力除去した。
そんな狷介(けんかい)なブレッソンが、彼の厳格な美学とは一見そぐわないかに思える題材を扱った怪傑作、『たぶん悪魔が』(1977)と『湖のランスロ』(1974)が、ついに日本初公開される(3月11日より、東京・新宿シネマカリテほか)。絶対に見逃せない2本だが、遺作『ラルジャン』(1983)と並ぶ、後期ブレッソンの最高作である。
以下では“サイコスリラー”でもある『たぶん悪魔が』を中心に論じるが、字数の許す限り、中世の血なまぐさい騎士物語、『湖のランスロ』にも言及したい。
ブレッソン12本目の長編『たぶん悪魔が』では、冒頭で主人公シャルル(アントワーヌ・モニエ)の死が告げられたのち、場面が6ヶ月前にフラッシュバックされ物語が始まる(冒頭では、パリのペール・ラシェーズ墓地におけるシャルルの死を、自殺であると報じる新聞記事と、他殺であると報じる新聞記事とが画面に示されるので、以後、彼の死をめぐる謎も観客の関心事となる)。
シャルルに扮するアントワーヌ・モニエを始めとする非職業俳優──ブレッソンは素人役者を好んで起用し、彼、彼女らを俳優ではなく「モデル」と呼んだ──は、固い無表情のまま抑揚を欠いた口調でセリフを喋り、滑るように静かに通りを歩き、階段を上り下りする。
カメラはしばしば、役者たちの腰から下、足元、あるいは手の動きを断片化してフレームに収める。また、映像より音響を重視したブレッソンは、本作でも足音や車や地下鉄の走行音を、劇伴なしに画面に響かせる(車が発進した直後のカットで、目的地に到着した車を写す、という時間省略も凄い)。静けさのなかにも緊迫感を生むブレッソン・タッチだ。
むろん、人物たちが何を考え、感じているのかを、ブレッソンは明示しない。それでも映画が進行するにつれ、シャルルには鋭い感受性と物ごとの本質を見抜く眼力があることや、彼が世界各地で深刻化しつつある環境破壊を憂いて精神に変調をきたし、自殺願望を抱くようになったことなどが、次第に明らかになる(時代設定は撮影時期と同じく70年代後半)。
そして本作が他のブレッソン作品と異なるのは、まさしく環境破壊やエコロジー/自然環境保護運動という今日的なテーマを取り入れている点だ。さらに、1968年の「5月革命」以降の新左翼の活動、ヒッピー・ムーブメントといった、空想的なロマン主義の現代的焼き直しにすぎない文化流行もシニカルに描かれるが、明晰なシャルルはそのいずれにも失望する。
またシャルルは、教会の司祭のお説教にも、精神分析家の診断やカウンセリングにも、欺瞞(ぎまん)や虚偽を感じ取り幻滅するが、消費資本主義の暴走による環境破壊が世界を亡ぼす、という終末論的な想念にとり憑かれた彼は、いよいよ虚無的になり、自殺願望を強めていく(屈折した自尊心の持ち主であるシャルルが精神分析家に言うセリフ、「僕は他人より頭がいい、自分を優秀だと思っている」は、彼の抱くニーチェ流の超人思想──自分を選良と見なし、世間の人々を衆愚ないし畜群と見なす──を暗示している)──。
このように本作における環境破壊は、あくまでシャルル個人の精神に影響をおよぼすサブテーマだ。つまり環境破壊は、告発の対象としてではなく、それを通してシャルルの内面を浮き彫りにする現象として描かれるのだ。とはいえしかし、本作における環境破壊のモチーフには、看過できない切迫感がある。そのことは、シャルルの友人ミシェル(アンリ・ド・モーブラン)が環境問題の専門家で、人類環境保護協会のメンバーであるという設定や、ミシェルが環境破壊の記録映像を上映しながらレクチャーをする場面にも顕著だ。
そして、その映像の一連には、抑制的な描写を特徴とするブレッソン作品としては例外的な過剰さがある。すなわち──工場の煙突から排出され大気中に漂う高濃度のスモッグ、農薬散布、タンカーによる廃油の映像、「酸化窒素によるオゾン層の破壊」(女の声)、「今に青空がなくなる」(男の声)、ゴミの廃棄場、自動車の廃車場の映像、「利益追求で種は全滅」(男の声)、「ここ百年で280種の鳥類、哺乳類が死滅」(女の声)、はたまた目を背(そむ)けたくなるようなアザラシの撲殺の映像、などなどだ。
さらに別の映写シーンでは、工場からの排水、泥土の映像に、「1日2千トンのチタンや硫酸が地中海へ」という女の声がかぶさり、次いで水俣病患者をとらえた映像(ズームアップも使われる)が映し出され、「水銀メチルが魚から人間へ」「発症まで15年」といった男の声が響く……。
こうした場面でのブレッソンは、いったん自らの<作家性>を手放してさえ、環境破壊の生々しい記録映像を挿入したのではないか、と思われる。事実、それらの映像は、禁欲的なブレッソン・タッチとは異なる、感情に直接訴えかけるようなイメージである(やはり厳格な演出が身上のジャン=マリー・ストローブ監督は、こうした場面をブレッソンらしからぬ説明的なシーンであるとして、批判したという)。
ただし繰り返せば、本作における環境破壊のモチーフは、あくまで主人公シャルルの終末論的ペシミズムを増幅させるものとして、物語的に回収される。それを端的に示すのが、パリ郊外の伐採場の記録映像を観ていたシャルルが、切り倒される木々が発する呻(うめ)くような音に耐えられず、苦しそうに耳をふさぐ瞬間である。
また、カドミウム汚染のために水浴が禁じられている川沿いの公園のシーンでは、シャルルと彼の身を案じる二人の女性、アルベルト(ティナ・イリサリ)とエドヴィージュ(レティシア・カルカノ)が、淡々とした口調で語り合う(大木を背に彼女らが川辺の草地に座って並ぶ構図が美しい)。そこでは釣り人が汚染された川から1匹の魚を釣り上げ、一抹の希望が表されると同時に、孤独と不安に苛まれているシャルルに、二人の女性が恋愛感情にも似た思いを寄せていることが、微妙なニュアンスで示される(アルベルトはミシェルの元恋人でもあるが、シャルルの心は二人の女性の間で揺れ動く)。
孤独な青年が二人の美しい女性の強い関心(すなわち愛)の対象になるという、いかにもフランス映画的な展開だが、ともかく環境破壊のモチーフは、糾弾調のメッセージになるすれすれのところで、シャルルの精神の失調とそれからの回復への試み、という彼個人の心身の(つまり実存的な)物語へと回収されていく。それゆえ『たぶん悪魔が』は、ブレッソン的なものと非ブレッソン的なものとが危ういバランスをとっている、まさしく稀有な映画だといえる(環境破壊のモチーフは、シャルルの内面のドラマと融合しているからこそ、観客に訴求するのではないか。なおモチーフとは、<創作動機>を指す用語)。
『たぶん悪魔が』で<悪>の権化として描かれるのは、利潤追求を最優先する消費資本主義だが、シャルルの友人ヴァランタン(ニコラ・ドゥギー)も、<悪>の化身のような陰気な人物だ。
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