必見! ロベール・ブレッソン『たぶん悪魔が』──“サイコスリラー”の怪傑作
藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師
“最小によって最大を表現すること”を標榜したロベール・ブレッソン監督(仏、1901~1999)。そのモットーどおり、誇張された演技、説明的なセリフ、さらにはBGMを映画には不要な“贅肉”であると見なしたブレッソンは、それらを自作から極力除去した。
そんな狷介(けんかい)なブレッソンが、彼の厳格な美学とは一見そぐわないかに思える題材を扱った怪傑作、『たぶん悪魔が』(1977)と『湖のランスロ』(1974)が、ついに日本初公開される(3月11日より、東京・新宿シネマカリテほか)。絶対に見逃せない2本だが、遺作『ラルジャン』(1983)と並ぶ、後期ブレッソンの最高作である。
以下では“サイコスリラー”でもある『たぶん悪魔が』を中心に論じるが、字数の許す限り、中世の血なまぐさい騎士物語、『湖のランスロ』にも言及したい。

『たぶん悪魔が』 © 1977 GAUMONT
3月11日(金)より、東京・新宿シネマカリテ他にて全国順次公開 配給:マーメイドフィルム/コピアポア・フィルム
ブレッソン12本目の長編『たぶん悪魔が』では、冒頭で主人公シャルル(アントワーヌ・モニエ)の死が告げられたのち、場面が6ヶ月前にフラッシュバックされ物語が始まる(冒頭では、パリのペール・ラシェーズ墓地におけるシャルルの死を、自殺であると報じる新聞記事と、他殺であると報じる新聞記事とが画面に示されるので、以後、彼の死をめぐる謎も観客の関心事となる)。
シャルルに扮するアントワーヌ・モニエを始めとする非職業俳優──ブレッソンは素人役者を好んで起用し、彼、彼女らを俳優ではなく「モデル」と呼んだ──は、固い無表情のまま抑揚を欠いた口調でセリフを喋り、滑るように静かに通りを歩き、階段を上り下りする。
カメラはしばしば、役者たちの腰から下、足元、あるいは手の動きを断片化してフレームに収める。また、映像より音響を重視したブレッソンは、本作でも足音や車や地下鉄の走行音を、劇伴なしに画面に響かせる(車が発進した直後のカットで、目的地に到着した車を写す、という時間省略も凄い)。静けさのなかにも緊迫感を生むブレッソン・タッチだ。
むろん、人物たちが何を考え、感じているのかを、ブレッソンは明示しない。それでも映画が進行するにつれ、シャルルには鋭い感受性と物ごとの本質を見抜く眼力があることや、彼が世界各地で深刻化しつつある環境破壊を憂いて精神に変調をきたし、自殺願望を抱くようになったことなどが、次第に明らかになる(時代設定は撮影時期と同じく70年代後半)。

『たぶん悪魔が』 © 1977 GAUMONT