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 5月15日に「復帰」50周年を迎える沖縄が、この間に歩んだ道程を振り返ると、1990年代半ばから2000年代半ばまで、ほぼ10年間続いた「沖縄ブーム」が気に掛かって仕方がない。

 この時期は、米軍兵士による少女暴行事件、全国初の県民投票、普天間基地の辺野古移設問題などで沖縄が大きく揺れた時期だった。その一方で、本土の観光客が押し寄せただけでなく、移住者も急激に増加した。また沖縄関連の映画や音楽が注目を集め、出版物も多く刊行された。各界の沖縄出身者の活動も賑やかだった。

 2000年の沖縄サミットに前後してメディアがこぞって沖縄を採り上げ、ブームを仕掛けたのは間違いないが、沖縄の内部に(半ばブームに応えるように)それまでの沖縄像を変えるような多彩な社会的・文化的な動向が生まれたことも確かである。

 つまり「沖縄ブーム」とは、ただ外からねじ込まれた流行に留まるものではなく、内からの自発的な創造を伴う、文化的勃興期だったのではないか──私が思い描いている仮説はそのような相乗的ダイナミズムである。

 この仮説に沿って、本連載では「沖縄ブーム」をいくつかのテーマからひもとき、その意味合いを沖縄─本土の関係から読み解いていきたい。50年の時間をかけて、沖縄と本土はどのような関係を築けたのか、または築けなかったのか──。あの頃沖縄に夢中になった方もそうでない方も、この連載を通して、本土から見た沖縄と沖縄から見た本土が交差する空間に新たな関係図を見いだしていただけたら有難い。

銀座のジャンキーガール

Applepyshutterstock拡大Applepy/Shutterstock.com

 たしか2002年の秋だったような記憶がある。私は友人と東京・銀座のはずれにある沖縄料理屋にいた。店は繁盛していて、テーブルはほぼ埋まっていた。友人は何回か遊びに行って、沖縄がすっかり気にいった様子だった。料理もよく知っていたから、注文は全部任せて、私はもっぱら相手の蘊蓄を聞きながら、泡盛を飲んでいた。

 なんの拍子だったのかよく覚えていないが、友人は隣のテーブルの若い女性二人組と言葉を交わし始めていた。彼女たちも沖縄に通っていて、意気投合したらしい。私の方は、反対側に座っていて話がよく聞こえないのをいいことに、ぼんやりその様子を見ていた。

 そのうち、友人がこちらに振り向いて話の輪に入るように促した。

 二人の女性はずいぶん陽に焼けており、(名乗った声は可愛らしかったが)それほど若くはなかった。もうかなり飲んだと見えて言葉には少し酔いもからんでいた。「沖縄にはしょっちゅう行くよ。ダイビングが好きで1年の3分の1はむこうにいるの」。一人はそう言いながら、腕時計を示した。それは大人っぽいパンツスーツには不釣り合いな、大きなダイバーズウォッチだった。

 彼女たちは潜りに行った沖縄で知り合ったと言った。そのとき一緒だったボーイフレンドとはとっくに別れたものの、「女子どうし」はその後も付き合ってきたのだという。いつの間にかダイビングと沖縄が一番大切なものになり、仕事も結婚も二の次になった。「二人一緒なら怖くないから、独身街道まっしぐら!」と一人が笑った。

 そのうち正規雇用の職も捨てて、制約の少ない派遣社員になった。「理由ははっきりしないけど、とにかく沖縄が好きなの。しばらくこっちにいると、ある朝、体内の“沖縄”が切れかかっているのに気付く。すると急に身体の調子が崩れて辛くなる。そう、ある種の中毒なんだね。あたしたち、沖縄ジャンキーなんだよ」ともう一人が言う。

 ひとしきり彼女たちの話を聞いていたら、夜はすっかり更けていた。二人分の泡盛カクテルを追加注文して、私は行ったことのない那覇の街を想像しながら友人と店を出た。


筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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