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死者と対話する日本人 ──供養という信仰が育む死生観

[15]死者の安らぎを祈り、死者が私たちの安らぎを祈ってくれる

薄井秀夫 (株)寺院デザイン代表取締役

供養のメカニズム

 供養という言葉は『広辞苑』によると、「三宝(仏・法・僧)または死者の霊に諸物を備え回向すること」とある。一般的には、死者に対して手を合わせて、あの世での安らぎを祈ることを言う。

 死ぬということは、誰しも不安を感じるものであるし、周囲の人間にとっては悲しいことである。

 大切な人が死んだ時に、あの世で苦しんでいないかと不安になるのは自然なことだ。

 供養は、こうした不安に対する解決策を提示する。供養をすることで、死んだ人を安らかにすることができる。そう信じられている。それゆえ、人は手を合わせ、供養をするのである。

 ところでこの時、人は誰に手を合わせているのだろうか。誰に祈っているのだろうか。

 これが実に曖昧である。もちろん教義的な仏教の立場に立つと、阿弥陀仏や釈迦牟尼仏などの仏さまに対して、死者が安らかであることを祈るということになる。

/Shutterstock.com拡大ploypemuk/Shutterstock.com

 しかし現実は、お墓や仏壇で手を合わせている時に、阿弥陀仏や釈迦牟尼仏を思い浮かべている人は少ない。ほとんどの人は直接死者を思い浮かべ、安らかであることを祈っている。

 ここに神や仏のような絶対者は存在していない。存在しているのは、供養する私と、供養される死者、そして供養する行為だけである。神や仏に祈って死者に安らぎをもたらそうとしているのではなく、供養の行為そのものに力があって、手を合わせれば、それで死者に安らぎを実現できるというメカニズムになっている。

 実は、「本来の仏教」における供養のメカニズムは、これと全く異なっている。

 まず供養する人は、仏さまに供物を供え、仏さまに手を合わせるという行為で徳を積むことから始まる。そして徳を積んだらその徳を、故人のために振り向ける。生きている人が積んだ徳を、故人に送ることで、故人が徳を積んだことと同じになるのである。それによって、故人を安らかにすることができる、ということだ。

 これを追善供養ともいう。本当は、死んでいった当人が徳(善)を積まなければいけないのだが、死んでからでは徳を積むことができないので、遺された人が後から追って徳を積み、それを故人に届けるという意味だ。

 そしてそれはあくまでも阿弥陀如来や釈迦如来といった仏にお供えをするのであって、死者にお供えをするわけではない。死者は、あくまでも人間であり、お供えをする対象では無いということだ。

 このメカニズムを聞いて、皆さん、どう思われるだろうか。複雑でややこしいと思うのではないだろうか。

 しかし教義的には、この複雑な考え方が正しい供養のメカニズムである(宗派によって、若干の違いはあるが)。

 そして仏教をよく知っている人ならば、直接、死者に向かって供養するという考え方は、間違っていると言うだろう。あるいは人間の力で死者を安らかにできるなど、思い上がりだと言うかもしれない。

 しかし現実は、「本来の仏教」が語る追善供養のメカニズムを知る人は少ない。知っていても複雑であるため、手を合わせる時にこのメカニズムをイメージすることは簡単ではない。

 それよりは、

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筆者

薄井秀夫

薄井秀夫(うすい・ひでお) (株)寺院デザイン代表取締役

1966年生まれ。東北大学文学部卒業(宗教学専攻)。中外日報社、鎌倉新書を経て、2007年、寺の運営コンサルティング会社「寺院デザイン」を設立。著書に『葬祭業界で働く』(共著、ぺりかん社)、 『10年後のお寺をデザインする――寺院仏教のススメ』(鎌倉新書)、『人の集まるお寺のつくり方――檀家の帰属意識をどう高めるか、新しい人々をどう惹きつけるか』(鎌倉新書)など。noteにてマガジン「葬式仏教の研究」を連載中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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