河原者と人形に憑依する「非日常の力」がカフカ『変身』と引き起こす化学反応
400年の伝統を紡ぐ糸あやつり人形劇団「結城座」がアングラ公演
石川智也 朝日新聞記者
ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目を覚ますと、ベッドの中で自分が巨大な虫に変わっているのを発見した――。
文学作品の書き出しとしては「きょうママンが死んだ」「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」並みに有名だ。
カフカの小説は『城』にしろ『判決』にしろ難解なものも少なくないが、この『変身』は、文体も平明できわめて読みやすい。読者にとって乗り越えるべき最大の「壁」は、まさに、人間が虫になるという冒頭の一行の「設定」を受け入れるかどうかにある。
作中に「変身」の原因の説明は一言もないばかりか「虫」の姿かたちの描写も一切なく、主人公グレゴールも、我が身に起きた不条理なはずの出来事をそれほど嘆いてはおらず、周囲も驚きはするものの「あり得ること」かのような前提で話は進む。
『変身』(原語Verwandlungはむしろ「変態」と訳すべきか)は、読む人の想像力をかき立ててやまない。
外形的には不条理小説かのようだが、滑稽味あふれる大人向けの寓話とも、人間の生態と人間性を考察する哲学小説とも、社会風刺の寓意小説とも受け取れるし、教養小説、障害者文学としても読まれてきた。多くの研究がこの作品についてなされ、触発された演劇や映画も数多く作られてきた。
表現者にとって挑むには心理的ハードルの高いこの作品を、400年近い歴史をもつ「江戸糸あやつり人形 結城座」が、気鋭の劇作家・演出家シライケイタの脚本・演出で上演する。

『変身』稽古中の結城座
カフカは「虫の絵は絶対に描くな」と言ったが……
人形劇の演出は初めてというシライは「『変身』はすでに色々な舞台作品が作られているので、とにかく悩みました。生身の人間が演じるのと違って、表情が固定されていて動きに制約も多い人形で演出するのは、不自由きわまりない。でもその不自由さによって、観客の想像力をより刺激できるし、逆転の発想もできる。カフカが『やるな』と禁じていることにも今回あえて挑戦することにしました」と語る。
前述のように『変身』に虫の姿は描かれていない。三人称で書かれているにもかかわらず徹底してグレゴール・ザムザの目から実際に見えるものに世界が限定されているこの小説で、ザムザは、自分の姿の全体を見ることはできない。カフカは出版時、装丁や扉絵に虫の絵だけは絶対に描くな、と版元に念押ししていた。
英国の鬼才スティーブン・バーコフがかつて脚本・演出を手掛けた舞台版では、俳優が日常の衣装のままメーキャップも変えず、マイム風の動きで虫のうごめく脚やしぐさを表した。あるいは、主人公グレゴールの配役を排し家族や周囲の人物だけを登場させ、グレゴールの目から切り取られた世界を見せるという方法もあり得る。この物語を寓意として捉えるなら、むしろその方が「正攻法」の演出なのかもしれない。

シライケイタ
しかし今公演では、油彩画家の谷原菜摘子がデザインした、二足歩行する甲虫風のグレゴールが登場し、十三代目結城孫三郎が演じる。
「主人公の造形がどうなるのか、どうしても興味を引いてしまうのは分かります。でも、虫の姿をどう描くかは、あくまで表層的な問題。グレゴールや家族の心理の深遠を観客に覗き見せることができるかどうか、思いもしなかった事態に直面した時にあぶり出される人間の本質をえぐることができるかどうか、それが最も重要で、追求すべき点だと思っています。虫として表象されているものが何なのか、それぞれの人が想像してほしい」
小説『変身』の叙述はどこまでも反主観主義的、反解釈学的であり、一見非情な現実が、感傷ともニヒリズムとも無縁な文体で克明に描き出されている。作中人物はあくまで主体の内部に取り込まれることのない客体であり、行動以外には無の存在、つまり行動によってのみ自己を定義する存在としてある。
登場人物たちの心理の深遠を覗かせたい、とのシライの言葉は、これもまたカフカの原作の逆張りという意味で、「挑戦」と言えるかもしれない。