【ヅカナビ】月組公演『今夜、ロマンス劇場で』
「そうだ!ミュージカルにしよう」、大スター俊藤さんの突飛な提案を深掘りしてみたら
中本千晶 演劇ジャーナリスト

いつもは激しく心揺さぶられる舞台が好きである。主人公の悲劇に涙したり、作品からの大事な問題提起に考えさせられたり。だが、時にそれがしんどいときもある。人間は弱い生き物だ。そういうときは、せめて舞台を見ている間は辛い現実を忘れたい。
そんなとき、月組公演『今夜、ロマンス劇場で』は疲れた心を癒してくれる作品だ。映画に賭ける京映スタジオの人々も、スクリーンの中で生きるキャラクターたちも、みんな一生懸命でどこか可笑しくて、愛おしい。そして、不器用ながらも一途な青年・牧野健司(月城かなと)とお転婆姫・美雪(海乃美月)の恋の美しい結末は、私たちにもひとときの夢を見せてくれる。
その優しく温かい世界観の中で、スパイスの如くピリリとした存在感を醸し出すのが、銀幕の大スター・俊藤龍之介だ。その勢いは東京公演でもとどまるところを知らず、愛すべきオレ様ぶりを発揮しながらも、意外と情が深いところも見せる。その絶妙な抜け感と品の良さが、鳳月杏が創り上げる、タカラヅカ版俊藤さんの魅力なのかなと思う。
さて、京映スタジオで撮影が始まった映画「怪奇!妖怪とハンサムガイ」は、俊藤さんの鶴の一声によって急遽ミュージカルに路線変更することになる。妖怪たちを引き連れたハンサムガイ俊藤さんが華やかに歌い踊るシーンは、タカラヅカ版ならではの見せ場だ。
だが、彼の「ミュージカルにしちゃおう」という提案は、単に大スターの気まぐれな思い付きではなかったのでは?と思う。そこで今回のヅカナビでは、この俊藤のひとことにスポットを当ててみたい。そう言わせた背景には、この時代の世の中の激動があったはずなのだ。
1964年とはどういう時代だったか?
タカラヅカ版『今夜、ロマンス劇場で』は、1964年の話ということになっている。元の映画での設定は1960年だ。脚本・演出を担当した小柳奈穂子氏が、敢えて4年後にずらしたのは何故なのかが気になる。1964年といえば、何といっても東京オリンピックの年だ。多くの人にとって印象深い一年ということで、この年が選ばれたのだろうか。
それは世の中が激変した年でもあった。オリンピックに伴って公共事業も推進され、新幹線、地下鉄、高速道路などの整備がすすんだ。この頃、自動車(マイカー)・カラーテレビ・ルームクーラーの「新三種の神器」が家庭に普及しつつあったが、東京オリピックはこの中のカラーテレビの普及をいっそう加速させた。まさに時代は、高度経済成長期の頂点を迎えようとしていたのだ。
そんな中、映画はテレビに取って代わられようとしていた。少し前の50年代は日本映画の黄金期であり、1958年には映画の観客数が過去最高を記録した。これが1963年には半分以下にまで落ち込んでしまう。
1964年の京映スタジオは、そんな渦中にあった。社長も監督も、そして俳優たちも、戦々恐々としていたに違いないのである。
日本もミュージカルブームだった
いっぽうこの時代は、ミュージカルブームでもあった。
少し前の50年代は、ブロードウェイにおいて古典的な名作ミュージカルが次々と生まれた時代だ。1956年には『マイ・フェア・レディ』、1957年には『ウエスト・サイド・ストーリー』が初演されている。
この波を受け、日本でもオリジナルミュージカルの制作が試行錯誤されるようになる。東宝の演劇担当取締役に就任した菊田一夫が、小林一三の命のもとで「東宝ミュージカル」を始めたのが1956年のことだ。だが、ブロードウェイのような洗練されたミュージカルがそう簡単に作れるはずもなく、実際に作られたのはドタバタ喜劇の延長のような舞台だった。
また、この頃はテレビでも「ミュージカル」が期待されていて、歌や踊りを含んだバラエティーショー的な番組が「テレビミュージカル」として制作され始めた。そんな具合に、まるで「ミュージカル」という言葉だけが一人歩きするような状況だったのだ。
そこで観客に衝撃を与えたのが、1963年に上演された日本初のブロードウェイミュージカル『マイ・フェア・レディ』だった。このときの熱狂たるや大変なものだったらしく、劇評家たちがこの歴史的瞬間の感銘を書き残している。
そんな噂は、きっと京映スタジオの面々の元にも届いていたことだろう。そう考えると、俊藤さんの「ミュージカルにしちゃおう」というアイデアも、あながち突飛なものではないと思えるのだ。それは彼なりに考えた、起死回生の一策だったかも知れない。
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