メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

復帰運動の夢

 石垣島出身のバンド、BEGINの歌に「オジー自慢のオリオンビール」というのがある。沖縄でシェアナンバーワンのオリオンドラフトビールのCMソングで、BEGIN流の島唄を集めたアルバム『オモトタケオ2』(2002)に収められている。数あるビールのCMソングの中で、文句なく傑作と呼ぶべき作品だと思う。沖縄では、子どもから老人まで誰もが歌えるらしい。

BEGINの島袋優、比嘉栄昇、上地等拡大BEGINの(左から)島袋優、比嘉栄昇、上地等

 歌詞の内容は、「島」とつくもの(酒でもマース(塩)でもぞうりでも)ならなんでも好きな若者とオジーの対話のように構成されている。若者は明日の甲子園の準々決勝を前に、今夜から那覇のビアガーデンに行くんだと張り切っている。彼はどんな映画よりオジーと話す方が楽しいともいう。ただ、不景気でどうにもならないから、内地へ出稼ぎに行こうかとつい愚痴る。

 するとオジーはこう叱る。「金がないなら海へ行け。魚が獲れれば生きていける。なんとかなるから(なんくるないさ)、やってみろ」と。多分、これは復帰前を知る世代と復帰後しか知らない世代の気のおけないダイアローグなのだろう。

 「三ツ星かざして高々と ビールに託したウチナーの 夢と飲むから美味しいさ」という軽快なサビの後、メインヴォーカルの比嘉栄昇は、声を落としてこう歌う。

 戦後復帰を迎えた頃は
 みんなおんなじ夢を見た
 夢は色々ある方が良い
 夢の数だけあっり乾杯

 さらりと歌われるこの歌詞に込められたのは、復帰運動のファナティックなほどの熱気と画一性への違和感なのだろうか。BEGINの3人は1968年生まれで、復帰運動を覚えていないはずだから、家族や年長者から当時の様子を聞かされたのかもしれない。

 1950年代の反米・反基地の「島ぐるみ闘争」は、苛烈な米軍の弾圧に遭って、最低限の権利を獲得したいと願うようになる。それゆえ、「平和と民主主義」の憲法を擁する本土日本への復帰を求めた。

 人々が一丸となって復帰運動へ打ち込んでいく様子は、後の世代から見れば「おんなじ夢」を見ているように感じられたのかもしれないが、実際はそれほど単純ではなかった。ベトナム戦争の真っ只中、「祖国復帰」の一部は「反戦復帰」へ向かったし、さらに反戦への傾きは、アメリカの世界戦略に同調し、その巧みな手立てとして復帰を仕組んだ日本国家への反感も生み出していった。

 復帰運動は戦後沖縄の最大の民衆運動であり、そこから多様な思想的試みが生成される、大きな坩堝(るつぼ)のようなものだった。決して画一的な運動ではなく、「おんなじ夢」にはつぶさに観察するとさまざまな色合いがあった。

 もし、BEGINやその後の世代が、復帰後の沖縄に「夢は色々ある」と感じるなら、その多様性の母体こそ復帰運動だったのではないか。復帰後の1970年代から80年代にかけて芽吹き、90年代の「沖縄ブーム」を内部から押し上げたカルチュラルパワーを考えるとき、そんな思いが頭をよぎる。


筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

菊地史彦の記事

もっと見る