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「国民のおもちゃ」を演じた『笑っていいとも!』のタモリ

[3]「仕切らない司会者」を支えた「無」への志向

太田省一 社会学者

 前回、「テレフォンショッキング」を例に『笑っていいとも!』の人気の理由についてみたが、むろんそこでタモリが果たした役割も大きかった。ではタモリは、『いいとも!』という番組において、そもそもどのような司会者であったのか? 今回は、その司会ぶりにスポットライトを当ててみたい。

「名古屋ネタ」と攻撃的知性

 「らしい」という意味では、タモリは決して司会者らしくはなかった。この連載の第1回で、タモリの司会は「仕切らない司会」だったと書いたのもその一端だ。いまで言うなら、ユルさのある“脱力系”といったところだろうか。だが、「仕切らない」というのは、ただ単に番組をてきぱきと進行しないということだけではない。敢えて通常の司会者の枠からはみ出し、自ら波風を立てることがあるのも、「仕切らない」一面である。

 特に、『いいとも!』初期のタモリは、いまから想像がつかないほど攻撃的だった。

 たとえば、「名古屋ネタ」などはそのひとつである。東京、大阪と並んで日本3大都市のひとつに数えられる名古屋だが、その風土には都会というよりはどこか田舎の匂いがある。そう考えるタモリは、「エビフリャー(エビフライのこと)」のように方言をことさら誇張したりして、名古屋を揶揄した。

 元々これは、ラジオの深夜放送『オールナイトニッポン』で言っていたネタだったが、『いいとも!』を通じて、さらに世に知られるところとなった。その意味では、タモリ本来の「密室芸人」的な毒の部分が生んだものだった。

 ただ、「毒」にも色々ある。ここでのそれは、やはり第1回でふれた、タモリならではの鋭い観察力に基づいた批評的な攻撃性ということになるだろう。実際、当時の世相や流行に怒りをぶちまける「おじさんは怒ってるんだぞ!」のようなコーナーなど、『いいとも!』初期のタモリは、世間への不満や怒りをひとつの芸にしていた。

『笑っていいとも!』(フジテレビ系)に出演した明石家さんま(左)と=1993年拡大『笑っていいとも!』(フジテレビ系)に出演した明石家さんま(左)とタモリ=1993年

 また、番組名物だった明石家さんまとのトークコーナー「タモリ・さんまの日本一の最低男」においても、ほかの誰も指摘しないようなさんまの仕草のわざとらしさなどを指摘し、それを笑いにつなげていた。それらもまた、タモリならではの攻撃的知性の発露に違いなかった。


筆者

太田省一

太田省一(おおた・しょういち) 社会学者

1960年、富山県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビ、アイドル、歌謡曲、お笑いなどメディア、ポピュラー文化の諸分野をテーマにしながら、戦後日本社会とメディアの関係に新たな光を当てるべく執筆活動を行っている。著書に『紅白歌合戦と日本人』、『アイドル進化論――南沙織から初音ミク、AKB48まで』(いずれも筑摩書房)、『社会は笑う・増補版――ボケとツッコミの人間関係』、『中居正広という生き方』(いずれも青弓社)、『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント 』(光文社新書)、『ジャニーズの正体――エンターテインメントの戦後史』(双葉社)など。最新刊に『ニッポン男性アイドル史――一九六〇-二〇一〇年代』(近刊、青弓社)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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