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沖縄チームの甲子園──「なんくるない」と闘った野球人たち

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

沖縄人たちの甲子園

 沖縄人の野球好き、いや高校野球好きはつとに知られている。

 甲子園大会で沖縄のチームの試合が始まると、那覇の国際通りから人(少なくとも地元民)が消える、国道58号線がガラガラになる、取引先へ電話しても出ない、みんなどこへ行ったんだろうと思って食堂を覗くと、店内にはテレビにくぎ付けの客がぎっしり。なんとか空いている席に座ったものの、店員はちっともオーダーを取りにこない……。

 この手の「沖縄高校野球あるある」は数えきれないほど存在するようだ。

 数ある甲子園の名勝負で、もっとも熱狂度の高かったゲームはどれなのか? いくつかの資料や証言からみると、「復帰」を挟んで二つの試合が浮かび上がる。

1968年8月16日阪神甲子園球場前沖縄勢で初めて甲子園で2勝した後、宿舎に引き揚げる興南の選手たち=1968年8月16日、甲子園球場前
 一つ目は、1968年夏の大会、岐阜南(三岐・岐阜)と戦った興南の2回戦だ。岐阜南に初回4点を取られながら徐々に挽回し、8回裏に一気に4点を奪って逆転した。主将の我喜屋優(がきやまさる)は1回戦ではノーヒットだったが、この試合では5打数3安打の活躍を見せた。

 これが沖縄勢初の2戦突破となり、勢いづくチームは海星(西九州・長崎)、盛岡一(北奥羽・岩手)を倒して、なんと予想外の準決勝(対興国[大阪])まで進んだ。「興南旋風」は島を史上空前の熱狂に呑み込んだ。

 二つ目は、1975年のセンバツ、豊見城(とみしろ)対東海大相模(神奈川)の準々決勝だ。猛将、栽弘義(さいひろよし)監督率いる豊見城は、エース赤嶺賢勇(あかみねけんゆう)が東海大相模打線を8回まで4安打、11三振に抑える一方、相手のエース村中秀人に13安打を浴びせた。スコアこそ1-0だったが、流れは豊見城に傾き、九分九厘勝利をおさめたかに見えた。

 しかし9回裏、東海大相模は2アウトから4番津末英明(元日本ハム、巨人)の二塁打、続く5~7番のヒットで逆転サヨナラ勝ちをもぎ取った。そのとき、アルプススタンドを埋め尽くした沖縄の応援団は、総立ちのまま言葉を失った。

 二つの試合は、沖縄の高校野球のみならず、沖縄人の「本土」に対する意識もいくぶんか変えた。特に豊見城と東海大相模(原貢・辰徳の親子鷹チーム)との熱戦は、サヨナラ負けの口惜しさもあって語り草になった。

 沖縄ナインは、この辺りからもう辺境の弱小ではなかった。上位の一角に食い込む実力と(「あと一歩」の脆さも併せ持つ)話題性豊かなチームになっていた。沖縄人たちは、事あるごとに見せつけられた「本土」の圧倒的優位に、一矢報いる可能性を甲子園の熱狂の中で見出したのである。

声援を送る興南の応援団 1968年「復帰前」の1968年、夏の甲子園大会で声援を送る興南の応援団。日の丸の旗やうちわが目立つ

1980年代の攻防

 続く1980年代は、豊見城から転任した裁監督が率いる沖縄水産が力を付け、比屋根吉信(ひやねよしのぶ)が監督を務める興南と、1983~1986年の夏の県大会決勝で対戦するなど、激しいつばぜり合いを演じた時期だった。

 興南は、1980年夏のベスト8を皮切りに、81年春夏、82年夏、83年春夏と4年連続で甲子園出場を果たす。一方沖縄水産は、裁の強化策が実って84年から5年連続で夏の大会への出場を勝ち取った(86年は春夏出場)。1988年には、20年前の「興南旋風」以来のベスト4を実現している。

 この時期、栽と比屋根、沖縄水産と興南とは犬猿の仲だったという。特に裁は比屋根を宿敵と見なし、ときに感情的な言葉さえ吐いたらしい。

比屋根吉信さん=兵庫県西宮市の阪神甲子園球場興南の監督を務めた比屋根吉信=2009年3月、甲子園球場

 松永多佳倫によれば、背景には豊見城が1975年のセンバツに出場したときの出来事があった。兵庫県尼崎市出身の「沖縄二世」である比屋根は、関西の土地勘もなく高校球界にも疎い初出場の豊見城を情報面・環境面からサポートした。裁は比屋根の貢献を認め、信頼を寄せた。それだけに、1976年の興南への監督就任は許せなかった。比屋根は当然ながら「打倒豊見城」を掲げざるをえない。二人の対抗意識は熱を帯びた。

 ただ少し引いて見れば、1980年代の興南と沖縄水産の競い合いは、沖縄高校野球のレベルアップに貢献した可能性がある。栽は持ち前の負けん気と直観的な戦略・戦術に長けた勝負師だが、比屋根は名門・報徳学園(兵庫)出身、西濃運輸で社会人野球も経験した緻密な指導者だった。しかも裁は、この時期の高校野球に「革命」をもたらした池田高校(徳島)の蔦文也監督に心服し、パワフルな打撃を生む蔦流の技術(筋トレ+フルスイング)を導入していた。二人の多少色合いの違う野球のぶつかり合いが、県勢チームに活気を与え、結果的には沖縄水産の1990~91年夏の連続準優勝につながったとも言えるのではないか。

沖縄の監督たち

 沖縄高校野球の歴史を紐解くと、栽弘義の存在感はやはり群を抜いている。糸満高校から勇んで中京大学へ進学するものの、実力の差を見せつけられ、さらに沖縄人ゆえの差別に遭って野球部を辞め、教員資格を携えて沖縄へ戻った。

 二番目の赴任校豊見城で、4年連続ベスト8(75年春、76~78年夏)を達成した後に、やんちゃで有名だった沖縄水産へ転じ、最も栽らしいチームを育て上げた。1991年、二度目の夏の甲子園決勝では、右肘の激痛を抱えるエース大野倫に最後まで投げさせ、批判も浴びた。手段を尽くして勝利を追求する闘将は、土壇場ではまるで投手と心中するかのように見えた。はからずも、この人物の野球美学の一側面が現れた場面だった。

沖縄勢として初の決勝進出を果たし、準優勝をかちとった県立沖縄水産高校(沖水)の栽弘義監督=1990年8月沖縄勢として初の決勝進出を果たした沖縄水産の栽弘義監督=1990年8月

 そんな栽が選手の指導で最も重視していたのは、沖縄人気質(きしつ)の払拭だった。「てーげー(大体、おおよそ、そこそこ)」や「なんくるない(なんとかなる)」のアバウトな楽観主義は、

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