1980年代の攻防
続く1980年代は、豊見城から転任した裁監督が率いる沖縄水産が力を付け、比屋根吉信(ひやねよしのぶ)が監督を務める興南と、1983~1986年の夏の県大会決勝で対戦するなど、激しいつばぜり合いを演じた時期だった。
興南は、1980年夏のベスト8を皮切りに、81年春夏、82年夏、83年春夏と4年連続で甲子園出場を果たす。一方沖縄水産は、裁の強化策が実って84年から5年連続で夏の大会への出場を勝ち取った(86年は春夏出場)。1988年には、20年前の「興南旋風」以来のベスト4を実現している。
この時期、栽と比屋根、沖縄水産と興南とは犬猿の仲だったという。特に裁は比屋根を宿敵と見なし、ときに感情的な言葉さえ吐いたらしい。

興南の監督を務めた比屋根吉信=2009年3月、甲子園球場
松永多佳倫によれば、背景には豊見城が1975年のセンバツに出場したときの出来事があった。兵庫県尼崎市出身の「沖縄二世」である比屋根は、関西の土地勘もなく高校球界にも疎い初出場の豊見城を情報面・環境面からサポートした。裁は比屋根の貢献を認め、信頼を寄せた。それだけに、1976年の興南への監督就任は許せなかった。比屋根は当然ながら「打倒豊見城」を掲げざるをえない。二人の対抗意識は熱を帯びた。
ただ少し引いて見れば、1980年代の興南と沖縄水産の競い合いは、沖縄高校野球のレベルアップに貢献した可能性がある。栽は持ち前の負けん気と直観的な戦略・戦術に長けた勝負師だが、比屋根は名門・報徳学園(兵庫)出身、西濃運輸で社会人野球も経験した緻密な指導者だった。しかも裁は、この時期の高校野球に「革命」をもたらした池田高校(徳島)の蔦文也監督に心服し、パワフルな打撃を生む蔦流の技術(筋トレ+フルスイング)を導入していた。二人の多少色合いの違う野球のぶつかり合いが、県勢チームに活気を与え、結果的には沖縄水産の1990~91年夏の連続準優勝につながったとも言えるのではないか。