2022年04月21日
宮崎学氏と初めてお会いしたのは15年近く前のことだったと記憶している。そのころ、ヤクザなどの弁護を手掛けてきた検察出身の田中森一氏が『反転 闇社会の守護神と呼ばれて』(幻冬舎)という回顧録を出版し、話題になっていた。この本をめぐって、いま私が編集長を務める月刊誌『月刊日本』で、田中氏と対談してもらったのがきっかけだった。
対談のテーマは検察の国策捜査だった。2000年代に入って、検察は村上正邦氏や鈴木宗男氏をはじめ、有力な政治家たちを強引な捜査で次々に逮捕していた。宮崎氏は検察の証拠固めや調書の作り方などに疑問を呈し、田中氏から検察の実態を聞き出していた。
当時の検察は絶対的な存在で、宮崎氏のように検察の捜査を批判する人は少なかった。のちに大阪地検特捜部による証拠改ざん事件が大きな要因となり、ようやく検察の捜査に懐疑的な目を向ける人が増えたが、そこから考えれば、いかに宮崎氏に先見性があったかがわかるだろう。
その後も宮崎氏には暴力団排除条例や、第二次安倍政権が創設したいわゆる共謀罪についてお話をうかがった。宮崎氏はいずれも国家権力の横暴だと強く批判していた。
宮崎氏に弊誌で連載を書いてほしいとお願いしたのは2014年のことだった。宮崎氏は1996年に『突破者』でデビューすると一躍論壇の寵児となり、『突破者それから』や『突破者烈伝』といったように、「突破者」を冠する著書をたくさん発表していた。突破者とは、思い込んだら一途でがむしゃらな、無茶な人のことを指す関西の言葉だという。突破者はまさに宮崎氏の代名詞だった。そこで、本誌でも「突破者」を冠した連載タイトルをつけようということになり、最終的に「突破者の遺言」に決めた。
宮崎氏はすでに体調を崩しており、病院に通っていたが、意気は衰えず、頭脳も明晰だった。そんな方に「遺言を書いてくれ」とお願いするのは失礼な話である。しかも、それを毎月連載してくれというのだからなおさらだ。
「宮崎は老い先が短いようだから、どうせくたばるなら引導を渡してやろうということか。それなら、こちらも好き勝手なことを言わせてもらう。後悔するなよ」と、宮崎氏。こうして連載が始まることになった。
その後、これまでの連載に前書きと後書きを加えて単行本にまとめ、連載タイトルと同じ『突破者の遺言』(K&Kプレス)という書名で出版した。結果的にこれが宮崎氏の絶筆となってしまった。まだまだ聞きたいことはたくさんあった。残念でならない。
宮崎氏は体調を崩すまで、東京都内のホテルを拠点に活動していた。そのホテルは利便性が良いからなのか、政治家や官僚、企業家、ジャーナリストなど、色々な人が出入りしていた。外国政府の役人もしばしば見かけた。
宮崎氏はいつもそのホテルのラウンジで仕事をしていた。ラウンジの入り口に最も近い席が指定席で、さながらラウンジの門番のような雰囲気だった。
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