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戦場でのおびただしい〈死〉の報に触れながら

戦争と平和、非日常と日常、善と悪――翻弄されることで見える何か

古川日出男 小説家

〈非日常〉によって現れた〈日常〉

 考えるためには材料が要る。これは「対象が必要とされる」と言い換えられる。

 たとえば人はその視野に戦争が対象物として入らなければ、普段は平和について考えるということはあんまりしない。ここで重要なのは、平和のただなかにいる人間は、それを平和だとは認識できないのかもしれない、と言えてしまうことだ。

 が、考えてみるとこれは不思議極まりない。そうだとすると、私たちが平和を手に入れるためには、つねに戦争の脅威が要る、となってしまう。その種の脅威が、かたわらにであれ、あるいは目の前にであれ。

 対置される概念はいつだって不思議だ。

 いまは戦争と平和を並べた。この2年ほどの間にもっとも対置された概念は、たぶん非日常と日常である。その非日常とは新型コロナウイルスのパンデミック状態を指す。

 なかでも2020年の春から初夏にかけて、私たちは「学校に行かない」だの「職場に行かない」だの「友だちに会わない」だの場合によっては「家族に会わない」だの、さまざまな制限のかけられた生活というのを初めて体験して、「いま〈日常〉が奪われている」と感じたし、それがどういうことなのかを深く考え出した。

 すなわち非日常が現われることで、初めて日常が(思考の対象として)出現した、と言えるのだけれども、日々かたわらにあるのが〈日常〉なのだから、これも本当に不思議なことだ。

東京都世田谷区の公園では、コロナ感染防止のため使用が禁じられた遊具がブルーシートで覆われていた=2020年4月29日

〈絶対悪〉はある、と思っていた二十代の私

 こんなふうに、相対する概念を並べていると、少し悲しい気持ちになる。

 たとえば善と悪。私は、若い頃に「善いことというのは定義しづらいけれども、悪いことならば直感的にもわかる。だから絶対悪はある」と考えていて、友人たちに「いま、目の前で自分が愛している家族を暴漢に殺されたら、私はそれを〈絶対悪〉だと名指す」と言って、それは違うんじゃないか? と年長の友人に指摘されたことがある。

 その時、私はまだ二十代後半で、友人の指摘を容れることができなかった。そして、いま、五十代半ばとなった私はむしろ友人の側に立って、その、若い自分に反論できてしまう。

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