メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

沖縄的ライフスタイル

 2004年2月、『沖縄スタイル』という雑誌(ムック)が創刊された。誌名の肩には小さな文字で「南の島の楽園生活マガジン」とあり、特集タイトル「沖縄で暮らす」にも「そろそろゆったりと、のんびりと。」というショルダーが付いていた。

『沖縄スタイル』(No.01、枻出版社、2004)拡大『沖縄スタイル』(No.01、枻出版社、2004)
 建てつけから分かるように、『沖縄スタイル』は比較的余裕のある沖縄愛好者を対象にしていた。A4変型判で8割はカラーページ、本体価格は933円。発行元は東京の出版社だったが、那覇市内に沖縄編集部を構えていた。おそらく相応の成算があったのだろう。

 巻頭には「沖縄引力。」と題した口絵ページを置き、「沖縄引力の証言者たち」として、ダイビング、シーカヤック、スカイスポーツのショップやマリンクラブを営む人々を紹介している。次に配置された40ページに及ぶ特集では、7組の沖縄在住家族と彼らの瀟洒な住宅、小綺麗な暮らしの様子を写真と文章で見せている。登場するのは、漆作家、陶芸家、音楽家といったアート畑の人物やリタイア組を含めた企業経営者である。

 しかし2004年といえば、世間の「沖縄ブーム」はピークを超え、沖縄自体も“リアルな沖縄”に戻りつつあった時期だ。8月には沖縄国際大学に米軍のヘリコプターが墜落、炎上した。新城和博は、翌日のある本土紙の一面が巨人軍の渡辺オーナーの辞任だったこと、小泉総理が休暇中を理由に会見を求めた稲嶺県知事に会わなかったことを記している。幸い死者は出なかったが、「沖縄の米軍基地問題に対する温度差がこれほどまでかと認識するのには十分だった」(新城『増補改訂 ぼくの沖縄<復帰後>史プラス』、2018)。

 こうした情勢にもかかわらず、沖縄への移住人口はこの頃から増え始めた。ブームの終盤に差し掛かって、沖縄に憧れ続けた人々は、まるで夢から覚めるのを怖れるように沖縄へ渡ったのだ。

 彼らの鋭敏な予感の通り、数年後には終焉がやってきた。リーマンショックの影響で、観光客数やホテルの稼働率などが急減した。夢は本当に覚めてしまったのだ。

 沖縄関連誌が3誌、次々に休刊した。“ライフスタイルマガジン”を謳った『季刊カラカラ』、創刊10周年の生活情報誌『月刊うるま』、そして最盛期には4万部を刷ったといわれる『沖縄スタイル』だった。


筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

菊地史彦の記事

もっと見る