岩波茂雄が1913(大正2)年に古本屋からスタートし、翌年に夏目漱石の『こゝろ』を出版して軌道に乗り、戦前戦後の日本の出版界を牽引してきた岩波書店は、来年創業110年目を迎える。

中野慶『小説 岩波書店取材日記』(かもがわ出版)
かつては大衆的な「講談社文化」に対して、「岩波文化」はインテリジェンスの象徴のように言われてきた。創業者はもちろん、同社について書かれた本は色々あるが、
中野慶『小説 岩波書店取材日記』(かもがわ出版)は小説というフィクションのオブラートに包み、実在の人物をもじって戯画化したりしながらも、「岩波文化」を支える経営と組合の実態や社内の人間関係をユーモラスに描写した快作で、読書人にとっては興味津々でもある。
小説は、大学で史学と労働経済学を学んでコンサルタント会社に就職した主人公の女性が、1か月の研修先として岩波書店を指定され、「労使関係に注目して、戦後の軌跡をたどる」という課題を課せられる。
上司から、まずこれを読めと与えられたのが、安倍能成の『岩波茂雄伝』(岩波書店)。さらに「変化球」だと言って手渡されたのが、「先々代社長」の大塚信一『理想の出版を求めて──編集者の回想1963─2003』(トランスビュー)と、団塊世代の編集者だった小野民樹の破天荒な青春記『60年代が僕たちをつくった』(幻戯書房)の2冊。彼女に対応し案内役を買って出たのは、労働組合委員長を務めたこともある同社の現役専務という設定だ。
初日に専務に社内を案内されていた時、階段上に高齢の著者が現れ専務は丁重に挨拶し、ケインズやガルブレイスについて書かれている理論経済学のI先生ですと彼女に紹介する。「労使関係について取材するとは、どういう視点なのですか」とI先生に聞かれ、「吉野源三郎さんが初代委員長を務めた労働組合にも注目しています」と答える。
I先生とは、言わずと知れた伊東光晴。専務が先生は『君たちはどう生きるか』を受け継ぐ本も書かれていると彼女に言い、巻末の注では『君たちの生きる社会』(ちくま文庫)が紹介される。このように、小説とは言いながらも、本文中で話題になるいわゆる岩波文化人の数やエピソードも多く、登場する著作の注が60点にも及ぶ一種の教養小説のようでもある。