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「沖縄でもポップカルチャーがあると思った」──新城和博氏に聞く(上)

“復帰後世代”が『おきなわキーワードコラムブック』に託したもの

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

沖縄復帰50周年の記念事業で、かつて沖縄返還を求めて灯されたかがり火が再現された=2022年4月28日、国頭村の辺戸岬沖縄復帰50周年の記念事業で、かつて沖縄返還を求めて灯されたかがり火が再現された=2022年4月28日、国頭村・辺戸岬

 沖縄返還または本土復帰から丸50年を迎えた。3月から始まった本連載も終盤となる。締めにあたって、沖縄からリモートでゲストをお迎えし、お話をうかがうことにした。

 新城和博さん。ボーダーインク(BORDER INK)という那覇の出版社で編集者を務めながら、ご自身でも執筆活動やラジオ出演など多方面で活躍されている方である。

 新城さんにお話をうかがいたいと思ったのは、連載第7回「それはポップな「自分探し」だった──沖縄を面白がった“キーワード世代”」で述べたように、新城さんたちのつくった『事典版 おきなわキーワードコラムブック』が、“復帰後世代”ともいうべき1960年代生まれの若者たちを中心に、内発的な「沖縄ブーム」をつくりだすきっかけになったからだ。

 この本が刊行されたのは昭和が平成に変わった1989年。沖縄発「沖縄ブーム」の正体である沖縄ポップカルチャー・ムーブメントの間近にいた新城さんには、いったいどんな風景が見えていたのだろうか?

新城和博(しんじょうかずひろ)
1963年、那覇市生まれ。琉球大学文学部卒業。ボーダーインクに編集者として勤務。著書に『うちあたいの日々──オキナワシマーコラム集』『<太陽雨>の降る町で──オキナワンうちあたいコラム』『ンパンパッ! おきなわ白書──うちあたいコラム』『道ゆらり──南風「みちくさ」通信』『うっちん党宣言──時評・書評・想像の<おきなわ>』『ぼくの<那覇まち>放浪記──追憶と妄想のまち歩き・自転車散歩』(以上ボーダーインク)など。

復帰を知らない世代

──復帰から50年という節目の年でもあるので、最初に復帰運動についてお尋ねします。新城さんは1963年生まれだから、運動の様子はご覧になっていませんよね?

新城 はい、小学校に上がるかどうかの年齢ですから、覚えていません。どちらかというと、残っているのは沖縄戦のことなんです。母親が渡嘉敷島出身なので、集団自決の現場を体験しています。その話を聞かされたこともあって、戦争は家族の記憶になっていました。

新城和博新城和博さん=筆者提供
 復帰のことは、小学生になって学校の先生から聞かされていたようです。先生の話に同調したのか、当時の個人文集を読むと「先生たちは頑張っています。ぼくも立派な日本人になりたい」って書いているのを発見しました。忘れてましたね。

──お若い頃、「復帰運動」に深くかかわった世代の方と出会ったり、語り合ったりしたご経験はあるのでしょうか?

新城 ぼくらは、沖縄戦はもちろん体験していないし、復帰運動も知らない。当時沖縄で何かを語ろうとするときの拠り所がない世代だった。そのころ「シラケ世代」という言い方がありましたが、その辺りとシンクロしているのかな……。ただ、大学に入った頃、学外の詩の同人誌に参加したのですが、そこのメンバーには復帰運動や、いわゆる「沖縄問題」に強く関心を持つ方々がいて、いろいろ話を聞いたり、ときに議論していました。

沖縄の復帰10周年を祝う記念式典では、満10歳の子どもたちを中心に万歳三唱=1982年5月15日午前11時45分、那覇市の那覇市民会館沖縄の復帰10周年を祝う記念式典では、満10歳の子どもたちを中心に万歳三唱がおこなわれた=1982年5月15日、那覇市の那覇市民会館
 その同人誌で、復帰10年ということで特集号を出すことになって、「新城くんも書いてみたら?」と言われました。ご存知かもしれませんが、子どもたちの間では、本土復帰したら沖縄でも雪が降るっていう噂、いまでいう都市伝説があったんです。ぼくはそれをモチーフにして、“雪は降らなかったけど、パラシュートや爆弾は降ってきた”って詩を書きました。そしたら、年長の方たちが「やはり書けるじゃないか」って感心していました(笑)

──1970年代から80年代にかけて、本土のポップカルチャーの洗練を受けたんですね?

新城 ラジオの深夜放送、少年マンガに少女マンガ、ポップスとロックにどっぷり浸かりました。その中でとにかくハマったのが小林信彦さんです。「オヨヨ大統領」のシリーズに始まって、小説、エッセイ、コラムと耽読してきました。小林さんの影響で一番大きいのは「笑いの文学」ということでしょうね。シリアスなことでも笑いという視点で表したいということ。最近思うところあって、この20年ばかりのコラム連載を読み直したのですが、そこで感じたのは、大切なことは何度でも繰り返し書くということですね。小林さん、東京の下町での空襲、疎開のことを何度も何度も書いているでしょう。「あ、そうか! 戦争の記憶というのは何度も繰り返し語っていかなくちゃならないんだな」って思ったのです。

『キーワードコラムブック』の頃

──なるほど。では、編集の仕事を始めてからのお話を聞かせてください。

新城 大学を卒業してある出版社の福岡支社に入ったのですが、訪問営業ということですぐに心が折れて即刻退社、逃げるように沖縄へ戻ってきました。するとたまたま、『青い海』という雑誌で募集があったので応募したら、採用になりました。もともとは、本土へ出た若者向けに大阪で1971年に創刊された雑誌ですが、復帰後に沖縄へ移り、沖縄タイムスの『新沖縄文学』と並ぶ総合誌になっていました。

 ところが入社してしばらくするうちに倒産。総合誌からタウン誌へ、雑誌のトレンドが変わる時期だったんですね。仕方なく伝手をたどって1年後に沖縄出版という会社へ入ることができました。そこで出会った上司が、後にボーダーインクを立ち上げる宮城正勝さん。『おきなわキーワードコラムブック』は、沖縄出版から発行されることになります。

沖縄の出版社「ボーダーインク」の宮城正勝さんと新城和博さん2007年沖縄の出版社「ボーダーインク」の宮城正勝さん(左)と新城和博さん=2007年

──『おきなわキーワードコラムブック』をやろうと思ったきっかけや背景は?

新城 あの本を出したのは1989年です。奇しくも高嶺剛監督の『ウンタマギルー』が公開された年。製作・配給がパルコだったので沖縄にもパルコ文化人が続々とやってきたり、ワールドミュージックのブームを追い風に坂本龍一さんが沖縄音楽に注目したりという時期。東京ではバブル景気の下で、ポップカルチャーがすごい勢いだった。これなら沖縄は沖縄で、違うローカルのポップカルチャーがあるんじゃないか、そう思ったのは確かですね。

 大学で社会人類学を勉強したこともあって、「都市民俗」みたいなものにも関心がありました。ちょうどニュー・アカデミズムと都市伝説の両方が重なる時期でもあり、都市をこれまでとは別の視点で見たら面白いんじゃないかっていうのはありましたね。それと、あの本の前書きにも書いてますが、『大阪呑気大事典』のスタイルが参考になりました。確か渋谷陽一さんが「ロックンロールはスタイルだ。誰もが共有できる。だから素晴らしい」と書いていたと思うのですが、

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