
正塚晴彦氏の作品には独特の雰囲気がある。根強い愛好者も多いが、苦手だという人もいる。
かくいう私も、苦手とは言わないまでも、得意ではなかった。薄暗い照明の中で淡々と進む物語に物足りなさを覚えることもあった。そんな私もようやく、正塚作品の醍醐味が少しわかった気がしている。晴れて正塚ワールド入門、である。
『ブエノスアイレスの風』は、1998年の月組初演で話題を呼び、2008年にも星組で再演された。正塚晴彦氏の代表作のひとつといっていい作品である。
さりげないけれど選び抜かれた言葉でつづられるセリフと絶妙な間が、正塚作品の真骨頂だ。演じる側のセンスが問われるともいえる。加えて今回の月組再演版は、場面ごとの細やかな芝居へのこだわりと、物語全体を貫くメッセージの打ち出し方のバランスがとても良かった。つまり、各論と総論がうまく両立していたような印象を受けた。
時は1900年代の半ば、長く続いた軍事政権が倒れ、民主化されたアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスが舞台だ。一般にタカラヅカ作品でよく描かれるのは、革命や戦争といった激動の時代に立ち向かう人々である。だが、この作品はそうではない。激動が収束したところから物語は幕を開け、登場人物たちは新しい時代の中で生き方を模索している。
軍事政権下ではゲリラ活動のリーダーであったニコラス(暁千星)も、その一人だ。政治犯としてずっと投獄されており、恩赦により出所してきたばかりだ。
そこに現れるのが、イサベラ(天紫珠李)とリカルド(風間柚乃)だ。過去は清算されたが未来への展望も特になく、一時停止したままのニコラスの人生に、対照的な二つの人生が交錯する。
タンゴ酒場に職を得たニコラスは、ダンサーとしての成功を夢見るイサベラのパートナーとなり、オーディションを目指すことになる。いっぽう、海外で逃亡生活を続けてきた戦友のリカルドは、相変わらず政府を敵と見なしており、再びニコラスと共に闘うことを望んでいた。
ニコラスを未来へいざなうイサベラと、過去に引き戻そうとするリカルド。一筋の光を目指して登っていこうとするイサベラと、再び闇に堕ちていこうとするリカルド。二つの人生の交錯点に立たされたニコラスは、果たしてどうするのか? それが、この作品の大筋である。
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