2022年05月17日
少し前、シリーズ企画「ROCKUMENTARY2022」のオープニング作『リンダ・ロンシュタット サウンド・オブ・マイ・ヴォイス』をご紹介した。タイトルからわかるように、アメリカを代表する女性シンガーの半生を描いた作品だ。
そちらに対しての反響は大きく、彼女の影響力の大きさを実感した次第である。では、残り2作品についてはどうだろう? 今回はそれらに焦点を当ててみたい。
まず『スージーQ』。女性ロック・アーティストの草分け的存在といっても過言ではない、スージー・クアトロの半生を追ったドキュメンタリーだ。
ご存じの方も多いだろうが、キュートなルックスと不良っぽいアプローチによってインパクトを投げかけた人物である。ベーシストとしての力量もかなりのものだったが、小柄な体型にはそぐわない大きなベースを抱えて動き回る姿は、視覚的にも新鮮だった。
「見た目はかわいらしいのに悪ぶってる女の子」という、いくぶんアンバランスなイメージは決して不快なものでもなかったわけだ。それどころか“ちょうどよくミスマッチ”だったため、不良っぽいのに近寄りがたくはなく、むしろ多くの人々はぐいぐい惹きつけられたのである。
私にとっても、彼女は特別な存在だった。最初の出会いは、音楽好きだった母親がいつも台所でつけていたラジオから流れてきた1974年のヒット・シングル「悪魔とドライヴ」。当時はまだ小学校高学年だったが、思春期の一歩手前ということもあって、彼女の不良っぽい音楽に惹かれるのは当然だったのかもしれない。
しかも、知識を持たない子どもにとっても、彼女の音楽はとても“ノリがいい”ものであった。それが「ブギー(Boogie)」と呼ばれるスタイルであったことはまだ知る由もなかったが、リスナーをぐいぐい牽引していくようなダイナミズムに魅了されてしまったのである。したがって以後も、「ワイルド・ワン」「トゥ・ビッグ」「ママのファンキー・ロックン・ロール」などのヒット曲に次々と引き込まれていった。
ひとつ覚えていることがある。ラジオを聴きながら家事をしていた母は基本的に開けっぴろげで、きわどい猥談を口にすることにすら抵抗を示さなかった人だった。少なくとも音楽の受け止め方に関しては進歩的なほうだったので、私も母のかけるラジオから多くのことを学んだ。
だが、ひとつだけ解せないことがあったのだ。そんな母が、なぜかスージー・クアトロだけは認めようとしなかったのだ。理由を聞いたら卑猥だというようなことを口にしたので純粋に疑問に思い、「具体的に、どこがどう卑猥なのか教えてほしい」と真面目に質問したものの(それもどうかと思うが、なにせ子どもである。気になって仕方がなかったのだ)、なんとなく曖昧にかわされてしまった。
いまだにその理由はよくわからないのだが、だからこそ結果的に、スージー・クアトロはどこか不可解な存在にもなっていった。好きなのに、好きだと公言してはいけないらしい、しかし特別な、謎の多い人として。
そう、少なくとも私にとって、スージー・クアトロはある種の謎を備えた人物だったのだ。基本的なバックグラウンドを、深く知る機会がなかったともいえるが。
本作を予想以上に興味深く観ることができたのも、おそらくはそのせいだ。ここで明らかにされる彼女のトピックスには、“知らなかったこと”も少なくなかったのである。
たとえば父親のグループ「アート・クアトロ・トリオ」や実姉と組んでいたガールズ・バンド「プレジャー・シーカーズ」での活動や実績などは、長らく彼女に抱いていたイメージとは大きく異なるものだった。
なかでも印象的だったのは、
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