苦悩する彼女の複雑な表情も浮き彫りに
ひとつ覚えていることがある。ラジオを聴きながら家事をしていた母は基本的に開けっぴろげで、きわどい猥談を口にすることにすら抵抗を示さなかった人だった。少なくとも音楽の受け止め方に関しては進歩的なほうだったので、私も母のかけるラジオから多くのことを学んだ。
だが、ひとつだけ解せないことがあったのだ。そんな母が、なぜかスージー・クアトロだけは認めようとしなかったのだ。理由を聞いたら卑猥だというようなことを口にしたので純粋に疑問に思い、「具体的に、どこがどう卑猥なのか教えてほしい」と真面目に質問したものの(それもどうかと思うが、なにせ子どもである。気になって仕方がなかったのだ)、なんとなく曖昧にかわされてしまった。
いまだにその理由はよくわからないのだが、だからこそ結果的に、スージー・クアトロはどこか不可解な存在にもなっていった。好きなのに、好きだと公言してはいけないらしい、しかし特別な、謎の多い人として。
そう、少なくとも私にとって、スージー・クアトロはある種の謎を備えた人物だったのだ。基本的なバックグラウンドを、深く知る機会がなかったともいえるが。
本作を予想以上に興味深く観ることができたのも、おそらくはそのせいだ。ここで明らかにされる彼女のトピックスには、“知らなかったこと”も少なくなかったのである。
たとえば父親のグループ「アート・クアトロ・トリオ」や実姉と組んでいたガールズ・バンド「プレジャー・シーカーズ」での活動や実績などは、長らく彼女に抱いていたイメージとは大きく異なるものだった。

『スージーQ』 ©The Acme Film Company Pty Ltd 2019
なかでも印象的だったのは、
・・・
ログインして読む
(残り:約1926文字/本文:約3623文字)