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久米明さんを身近に感じる追悼展──地元・三鷹を愛した名優、名ナレーター

ペリー荻野 時代劇研究家

劇団活動とラジオ、実験放送のテレビにも出演

名俳優であり名ナレーターもであった久米明さん(1924─2020)拡大名俳優であり名ナレーターもであった久米明さん(1924─2020)

 大正13年(1924)生まれの久米さんは、東京の麻布中学に入学。同級生のひとりに吉行淳之介がいた。当時、強く惹かれたのは「ニュース映画」だったという。テレビがない時代、ニュース映画は、先端の報道映像だった。時節柄、トップニュースは戦争についてだったが、やがて映画も楽しむようになる。

 昭和17年(1942)、旧制の東京商科大学(現在の一橋大学)に入学。大学の演劇研究会を通じて、戦後、滝沢修、杉村春子らと新劇の復活に取り組んでいた山本安英に師事し、劇団「ぶどうの会」を結成、本格的な俳優活動を始めることになる。稽古場は山本先生が暮らす焼け跡のバラックのような住まいだった。

展覧会「三鷹とともに語り演じた役者人生─久米明の歩み─」=三鷹市・桜井浜江記念市民ギャラリー、筆者提供拡大展覧会「三鷹とともに語り演じた役者人生─久米明の歩み─」=三鷹市・桜井浜江記念市民ギャラリー、筆者提供
 やがて「ぶどうの会」は、庶民のもっとも身近な娯楽であったラジオでの仕事が増えていく。昭和27年(1952)、ラジオで実力を見込まれた久米さんに本放送開始前のテレビの「実験放送」の依頼がきた。急遽作られたテレビのスタジオは、天井が低く、照明が頭のすぐ上にあって、俳優は熱さで大変だった。映りをよくするため、なぜか女性は紫の口紅を塗っていた。

 多くの放送人がテレビの将来性を疑う中で、昭和34年(1957)、久米さんは初期の名作ドラマに出演する。NHK大阪放送局の「石の庭」だ。

 応仁の乱の後、京都・龍安寺の石庭作りを続ける兄弟の愛や封建社会のひずみを描く。原作は有吉佐和子の小説で、演出は豪快な演出と笑い声で知られた和田勉。1時間の生放送でカメラは2台のみ。本番では、庭、お姫様の居室、兄弟の家が作られたスタジオを行き来しながら、急いで着替える。この動きを大阪で10日間特訓した。

 今回の展示に、芸術祭奨励賞を獲得したこのドラマについて「うれしい仕事だった」と語る久米さんの記事があった。役作りのため、龍安寺に出向き、庭を作った人間のことをじっくり考えたというのは、久米さんらしい。


筆者

ペリー荻野

ペリー荻野(ぺりー・おぎの) 時代劇研究家

1962年、愛知県生まれ。大学在学中よりラジオパーソナリティを務め、コラムを書き始める。時代劇主題歌オムニバスCD「ちょんまげ天国」のプロデュースや、「チョンマゲ愛好女子部」を立ち上げるなど時代劇関連の企画も手がける。著書に『テレビの荒野を歩いた人たち』『バトル式歴史偉人伝』(ともに新潮社)など多数。『時代劇を見れば、日本史はかなり理解できる(仮)』(共著、徳間書店)が刊行予定

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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