自ら作りだした「虚構」に基づく「部落差別」を、なぜ「私」たちは乗りこえられないのか
ドキュメンタリー『私のはなし 部落のはなし』の複層的な「まなざし」と「語り」
大島 新 ドキュメンタリー監督・プロデューサー
ここ数年で唯一「乗った」他者の企画
ここ数年、私のもとに映像制作会社のディレクター(監督)やプロデューサー、あるいはフリーの映像作家から、ドキュメンタリー映画の企画についての相談が寄せられた。きちんと数えたわけではないが、少なくとも10件は超えている。
しっかりした体裁の企画書を携えて熱弁をふるい「出資を検討してほしい」という提案もあれば、「テレビ番組として作った作品を映画化したいので、プロデューサーとして参加してもらえないか」という相談もあった。言うまでもなく、映画は博打の要素が強い。自分が心底からやりたい企画ならばともかく、他人の企画に「乗る」には、余程のことがない限り決断できない。その中で、私が唯一「乗った」のが、満若勇咲監督の『私のはなし 部落のはなし』であった。
満若監督と初めて会ったのは、2019年2月のこと。同世代のドキュメンタリー仲間であり、劇映画のカメラマンとしても活躍する辻智彦さんの紹介だった。初対面の満若くん(と、あえて言わせてもらう。彼と私の年齢差は17だ)の印象は、「よくこんなに喋ることがあるな!」というもの。
私がこれまで付き合ってきたカメラマンは職人的で寡黙なタイプが多く、次から次へと溢れ出す彼の言葉に驚きつつも、惹きこまれた。その時に「大阪芸術大学在学中に兵庫県の食肉センターを舞台にした『にくのひと』(2007)という映画を撮ったが、劇場公開ができなくなり、被差別部落の問題について自分なりに落とし前をつけたいと思っている」という主旨の話を聞いたのだ。

満若勇咲監督
『にくのひと』は上映を断念
私は『にくのひと』を観ていなかったが、当時大阪芸大の教授だった原一男監督の指導を受け完成した同作は、各地での上映会で好評を得て、都内のミニシアターでの公開が決まった。だがその矢先に、映画の中の一部の表現に対し、兵庫県の部落解放同盟から「内容に問題がある」と抗議を受け、上映中止を求められたという。さらにその過程で、主人公の青年から「もうこの映画には関わりたくない」と言われてしまったことが、映画を封印する決定打となった。
満若くんの語りには、取材を受けてくれた人たちへの愛情と敬意、そして公開を断念せざるを得なかったことへの忸怩たる思いが溢れていた。加えて、差別を受けてきた人たちへの想像力が足りなかったと、自らの未熟さを悔いていた。私は彼の思いの深さに打たれ、部落問題をテーマにした新しい映画を必ず作るべきだと感じた。そして私が参加することで実現の可能性が上がるならば、ぜひ手伝わせてほしいと申し出た。
だから実はこの映画に関しては「企画を持ち込まれた」のではなく、話を聞いて私が勝手に盛り上がり、いわば押し掛けプロデューサーのような形で出資を決めたのだった。とはいえ出せるのは映画製作費の全額をカバーできる金額ではなく、上限を伝え、足りない分は自腹を切れるか、と監督に問うた。満若くんは「ありがとうございます。やります」と、まっすぐな眼で答えた。今から考えると、なぜあんな決断ができたのか不思議だが、勘が働いた、としか言いようがない。この若者に賭けてみたい、という思いだった。

(C)『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
今作で、上映中止の経緯も盛り込む
プロデューサーとしての私は放置プレイタイプで、大きなテーマのみ共有してさえいれば、後は現場に任せる、というスタイルだ。注文らしい注文はほとんどしておらず、監督に一点だけ提案したのが、映画の中に『にくのひと』が上映中止となった経緯と、そのことについての満若くんの思いを組み込んでほしい、ということだった。彼は当初あまり乗り気でないようだったが、最終的には納得してくれた。
本格的な撮影が始まると、満若くんは時々ロケの状況を報告してくれたが、私は特に意見を言うでもなく、彼の饒舌な語りをふむふむと聞くばかりだった。その時間は実に楽しく、さながら私は部落問題について教えを乞う生徒のようだった。もしかしたら満若くんは、部落問題についてごく一般的な知識しか持たない私の反応を見ながら、この問題にそれほど詳しくない人間にどう伝えたらいいのか、測っていたのかも知れない。