[17]求められる経営のスリム化と経理の公開
2022年05月24日
以前、私は、宗教界の専門誌の記者をしていたが、ある住職に取材を申し込もうとして、「お寺の運営についてお話を聞きたいのですが」と電話をしたところ、「お寺は経営するものじゃない、宗教を何だと思っているのだ!」と、叱責されたことがある。
「経営」という言葉に拒絶反応を示す僧侶がいることは予想していたので、「運営」という言葉を使ったのだが、残念ながら小手先の策は通じず、かなりご立腹であった。仏教界で、「経営」という言葉を使うと、不謹慎と受けとめられてもやむを得ないのである。
私はその後、お寺の運営コンサルティング会社を設立し、今年で15年がたつが、今では「経営」という言葉を使って、マイナスの反応があることはだいぶ少なくなった。会社設立当初は、多少の反発があったが、次第にそうした意見は減り、今では「経営」について関心のある僧侶のほうが多いと感じる。
お寺は法人である以上、経営は大切なことである。もちろん、収益事業ではないので利益至上主義は好ましくない。ただ人に満足してもらって、お金をいただく、という仕組みは、企業と変わらない。何よりお金がなくては宗教活動はできない。そこに経営的な視点を欠かすことはできないのだ。
一方、お寺という宗教法人が、どのように運営されているのかは、一般生活者にとってはとてもわかりにくい。宗教法人には、収支計算書を作成することが義務づけられており、檀信徒に公開しているお寺もあるようだが、その数は少ないのが現実である。
お寺の収入には、3つの柱がある。
そのひとつは、葬儀におけるお布施である。
檀家の誰かが亡くなれば葬儀を行うが、その導師(葬儀でお経を読む役割)を僧侶が勤め、それに対してお布施が渡される。
ただ、葬儀というのは、人が亡くなって行われるものであるから、そう数は多くない。檀家が100軒あると、年間だいたい5件くらいの葬儀があると言われる。一般的な、檀家数が200〜300件のお寺でも、年に10数件の葬儀がある程度である。
もうひとつは、法事(年忌法要等)でのお布施である。
初七日や四十九日などの中陰法要、一周忌や三回忌などの年忌法要を勤めた時、やはりお布施が渡される。
葬儀は、檀家の誰かが亡くなることで依頼が来るものであるから、檀家が相当数あるお寺でない限り、さほど回数は多くない。しかし法事は、ひとりの死者に対して繰り返し行われるため、回数は葬儀の数倍となる。
葬儀後には、初七日、四十九日という中陰供養が行われ、その後、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌と年忌法要が続いていく。近年では、この全てを行う家は減ってきているようだが、それでも初七日、四十九日、一周忌、三回忌くらいは行うのが一般的だ。
それからもうひとつの収入として挙げられるのは、年間の会費収入である。名称は宗派や地域によって異なるが、護持会費と呼ばれることが多いようだ。所属している檀家全員が負担する年会費で、お寺の運営費用に充てられることが多い。
つまりほとんどのお寺では、葬儀、法事、年会費の3つが柱となって、収入が成り立っているということだ。
この他、祈祷・祈願を行って収入を得ているお寺もあるが、それは全体から見ると、あまり多くはない。
また宗教活動とは別に、収益事業を行っているお寺もある。
お寺の収益事業で特に多いのは、不動産業であろう。土地を所有していて、そこから地代収入を得ているというケースである。以前、この連載でも書いたが(「お寺と経済の悩ましい関係──お布施収入が減少するなかで」)、広大な土地を持っていて、そこから多額の地代収入を得ているお寺もある。ただ現実としては、住宅数軒分の土地や駐車場があって、補助的な収入があるといった程度のお寺が大部分である。
またお寺というと、「寄付をとられる」というイメージを持っている人もいるだろう。確かに以前は、本堂の建て替えなどで強制的に寄付を徴収したというお寺があった。「強制」としていなくても、同調圧力で実質的に半強制だったケースは多い。
ところが現在では、こうした半強制の寄付を求めるお寺は激減した。当たり前のことであるが、こうした寄付は、檀家の反発を生む。高度経済成長期のように経済が上向きの時代は、多少の不満があっても我慢して寄付する人は多かったが、現在のような経済状況では、そう簡単に寄付する人は少ない。
それでも本堂の建て替えなどで建設費が必要な時には、ある程度は寄付に頼るしかない。ただそれは強制ではなく、「お願い」する程度にとどまらざるを得ないのである。
その他お寺には、法話会で教えを説く、坐禅会をする、写経会をするなどの宗教活動がある。これらはお寺にとって重要な活動ではあるが、収入という面では貢献度は低い。
地域活動やイベントなども同様である。お寺の使命として地域貢献は大切なことであるが、こうした活動から得られる収入は少ない。
こうした地道な活動を続ける中から、檀家になる人が出て、結果的に収入が増えるはずだと考える僧侶も多い。
ところが現実は、地域活動に参加する層と、死者供養をお寺にお願いする層は、重ならない。地域活動に参加している人の中から檀家になる人が出てくることは、極めて稀(まれ)なのだ。
お寺の活動は実に多彩で、意義あるものが多いが、結局のところ、葬儀・法事・年会費が収入の柱であることは、これからも変わらないのである。
お寺の収入というものは、あまり年によって大きく増えたり減ったりはしない。
それは、お寺は檀家という固定化した人たちによって支えられているからである。
檀家は通常、家単位での会員なので、世帯主が死んでも、次の世代が世帯主となり、その家は檀家であり続ける。そして家族の誰かが死ねば、菩提寺に葬儀を依頼し、その後の法事も依頼する。つまり、家が絶えない限り、檀家は減らないということになる。
また檀家の葬儀や法事は、原則、菩提寺しか行うことができない。つまり菩提寺が独占できるということだ。
檀家組織というものは、もともと地域共同体をベースにつくられていた。檀家のほとんどは、お寺の周辺に住む人で構成されていた。
地域共同体は、「辞める」ということが想定されていない。住んでいる人は、自動的に共同体の構成員である。そのため檀家も「辞める」ということが想定されていないのである。
ところが、地域共同体というものも、平成、令和と、だんだんと弱体化してきた。濃密な人間関係や相互扶助の関係も、もはや過去のものである。
もはや地域共同体は、檀家制度のベースではなくなっている。
ところが檀家制度だけは未だに、「辞める」ことが想定されていない。そもそも「辞める」ための規程が存在しない。
どうしたら辞めることができるかは、
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