韓国で再び舞台演出を②
2022年06月18日
1982年に劇団を解散し、演劇から離れたつかこうへいが85年、再び舞台に取り組み始めた。ソウルで韓国人俳優と作る『熱海殺人事件』。それはソウルに転居した母への思いを込めた公演だった。その公演を振り返る2回目です。
前回の「母に捧げるソウル公演、つかこうへい再び舞台へ」は、こちら。
「長谷川さん、僕らも韓国行きましょうよ」
渡したばかりの連載原稿に目を通しながら、『ホットドッグプレス』の原田隆がそう口にしたのは、『ソウル版・熱海殺人事件』のためにつかが韓国に出発してから、何日も経っていない頃だった。
当然ながら、僕はつかのソウルでの公演には観客として駆けつけるつもりでいたが、原田が言うのはそういうことではないらしい。3年ぶりに、それも韓国で芝居に取り組むつかの姿を、ルポとして連載とは別に書かないかというのだ。
「とりあえず本番前にも一度、予備取材として行っておいた方がいいかなぁ」
こちらの返事も待たずに原田はつぶやき、僕らはしばらくして、1度目のソウルに向かうことになる。
日本がバブルへの階段を昇り始め、出版界の景気も上々、雑誌はケチることなく経費を使えた時代である。おかげで僕は2度の韓国行きとも、旅費や宿泊費は講談社持ちとなったのだから、正直、原田様々というところだった。
原田との出会いは、そもそもがつかこうへいを通してのものだ。つかが一度だけ『ホットドッグプレス』に原稿を書いてからというもの、担当した原田は何とか新たな連載を始めてもらおうと、つかの事務所に日参するようになっていた。1984年の秋のことである。
つかにその気はまるでなかったが、原田はめげなかった。秘書である江美由子や、助手まがいの僕を取りこもうと(それが無駄な作業とは気づかず)、連日のように、当時のグルメブームに乗っかった都内の店を巡り、「経費」による接待(?)を繰り返した。
当時まだ二十代半ばを過ぎたばかりの原田は、島根出身で訛りが少し残り、どこか純朴さを感じさせ、それがいい意味で、編集者としての有能さや如才なさを覆い隠していた。
そんな原田が奮闘むなしく、ついにつかの原稿をもらうことを諦めた時、仕方なく声をかけたのが、すっかり飲み友達となっていた僕だった。
「長谷川さんがいつも飲み屋で世の中にイチャモンつけてるようなこと、あれ面白いから、原稿にしてくれればいいんですよ」
どうやら連載の枠をひとつ、どうしても埋めねばならなかったらしい。原田はそんなことはおくびにも出さず、憎めない口調で飄々と続けた。
「テレビ番組をあれこれ語るってのはどうかな? 元俳優の放送作家って肩書きも、なかなかイケてると思うんですよ」
そんなわけで隔週刊毎号1ページの連載が始まる。といっても、テレビなどニュースかスポーツ中継しか観ない僕に、番組評など容易く書けるわけがない。つかの日記シリーズに倣い、毎回、原田をお調子者の担当編集者として登場させ、二人でのドタバタをでっち上げながら、わずかにテレビ番組に触れるという形で原稿を埋めた。
思うに読者の人気は乏しく、編集部の評価も芳しくなかったようだ。それでも原田は文句ひとつ言わず、月に5、6度、原稿やゲラの受け渡しのたび、あちこちの「名店」で酒や料理を振る舞ってくれ、毎度バカ話に花が咲いた。原田の人柄もあって、僕にとっては居心地のいい時間だった。
そんな原田が韓国取材を考えついたのは、もちろん原田自身のつかに対する思いもあったろう。しかし、ある種つかこうへいと特別な関係にある長谷川康夫に、それをウリにした形での記事を書かせ、多少なりとも編集部内での立場を上げてやろうという、親心(?)だったような気もする。
原田と二人、初めて金浦(キムポ)空港に降り立ったのは、1985年10月の初旬だ。それまでに僕は韓国語の入門書を手に入れ、かろうじてハングルを読めるようにだけはなり、片言の挨拶も頭に入れていた。
つかのお母さんと会うのは、直木賞の授賞式以来だったが、息子の「弟子」がわざわざやって来たということで、にぎやかに歓待してくれ、そのまま昼食となった。現地での最初の食事が、広いテーブルにびっしり並ぶ、お母さん手づくりの韓国料理だったことは忘れられない。
嬉しげに休む間もなく声をかける母に対し、つかの表情は驚くほど柔らかく、はにかみさえ見てとれた。それは長い付き合いの中で、初めて知るつかこうへいだった。
原田と競い合うように料理を腹に詰め込んだ後、僕らはつかや小山と共に午後からの稽古に向かった。
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