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『笑っていいとも!』と聖地・新宿アルタ

[5]「流浪のひと」タモリが新宿で芸人になった訳

太田省一 社会学者

 前回まで、いくつかの点から『笑っていいとも!』という番組についてみてきた。今回は少し視点を変え、「新宿」という場所に注目してみたい。『いいとも!』の公開生放送の場となったのも、福岡から上京したタモリが芸人として見出されたのも、新宿であった。そのことの文化史的意味合いについて、掘り下げてみたい。

闇市から歌舞伎町へ~新宿の戦後史

 戦時中の空襲でかなりの被害を受けたものの、新宿はいち早く復興への第一歩を記した街だった。敗戦からわずか5日後、テキヤの元締めだった尾津組の主導により「新宿マーケット」が開かれる。「光は新宿より」という看板を掲げたこのマーケットは、闇市の先駆けとなった。いうまでもなく闇市自体は非合法なものだが、極度の食糧・物資不足のなかで人びとの生活を支えた場所でもあった。

戦後間もなく、闇市の先駆けとなった「新宿マーケット」戦後間もなく、闇市の先駆けとなった「新宿マーケット」=1945年10月

 とはいえ、次第に世の中が落ち着きを取り戻し始めると、本格的復興に向けた都市整備計画が持ち上がり、新宿駅前にあった「新宿マーケット」も少しずつ解体されていった。そのなかで多くの商店主が移り住んだのが、同じ新宿の歌舞伎町だった。

 「歌舞伎町」は、戦後生まれた町名である。敗戦直後、別の名前だったその地域に民間主導の復興計画が立てられた。それは、歌舞伎の劇場を建設し、そこを中心に映画館や演芸場、ダンスホールなどが集まった芸能の街をつくるという構想だった。

 だが結局、財政的な問題などで歌舞伎劇場建設の計画は頓挫。1948年に生まれた新町名のなかに「歌舞伎」の文字が残ったにすぎなかった。ただ、芸能の街というコンセプトは受け継がれ、現在のように映画館などが集まった一大娯楽街が形成されることになる。1956年には、演歌歌手の座長公演でも有名だった新宿コマ劇場が誕生。2008年の閉館まで、長らく歌舞伎町のシンボルとなった。

歌舞伎町広場映画館や劇場に囲まれた歌舞伎町広場。右奥が新宿コマ劇場=1958年

新宿の1960年代~カウンターカルチャー時代のジャズと演劇

 その新宿コマ劇場のすぐ近くに、「ジャックの豆の木」という一軒のスナックがあった。歌舞伎町は飲み屋の集まる歓楽街としても有名だが、ゴールデン街など文化人や芸能関係者が集まる店も多い。「ジャックの豆の木」は、そんな店のひとつだった。常連には、作家の筒井康隆、漫画家の赤塚不二夫、ジャズピアニストの山下洋輔など錚々たる顔ぶれが並ぶ。そしてこの店が主体となって福岡に住むタモリを東京に呼ぶ会がつくられ、1970年代、そこからタモリは芸人への道を歩み出すことになる。

 ここで少し時間をさかのぼり、新宿が担っていた文化的役割にふれておきたい。

 1960年代中盤から後半にかけての新宿は、カウンターカルチャーの中心だった。

 なかでも、新宿と切っても切り離せなかったのがジャズと演劇である。

 1965年、車好きのための喫茶店として始まった「ピットイン」は、渡辺貞夫らジャズミュージシャンに演奏場所を提供し、評判になる。そのミュージシャンのなかに、フリージャズの旗手として時代をけん引することになる山下洋輔もいた。

 一方、演劇も盛んだった。当時、演劇の既成概念を破壊するようなアンダーグラウンドの劇団、いわゆるアングラ劇団がセンセーショナルな話題を呼んでいた。そのなかで新宿を拠点にしていたのが、唐十郎率いる「状況劇場」だった。

 状況劇場は、1963年に旗揚げ。街頭演劇などを経て、1967年8月、新宿・花園神社の境内に紅テントを建てて公演をするようになる。『腰巻お仙』が評判を呼ぶ一方、1969年1月に都の中止命令にもかかわらず新宿の公園でゲリラ上演を敢行し、唐らが逮捕された「新宿西口公園事件」など、しばしば体制側と衝突もした。

状況劇場が新宿西口の公園にテント劇場を設置し、上演を強行しようとしたため、機動隊が出動し排除する騒ぎになった。写真は都職員(手前)の警告を無視して、トラックから大道具をおろそうとする劇団員1969年1月3日東京・新宿西口中央公園.テント劇場で上演するためトラックから大道具をおろそうとする状況劇場の劇団員と機動隊や都職員が衝突した=1969年1月3日、東京・新宿西口の中央公園

 そんな唐十郎と山下洋輔の共演となる深夜興行『ジョン・シルバー(時夜無銀髪風人)』がピットインで実現したのが、1967年2月のことだった。

 山下らミュージシャンは、台本なしに唐の芝居を見ながら、役者の動きに生演奏の音をからませる。つまり、単に伴奏するのでも、芝居とは無関係に演奏するのでもなく、音楽と芝居が拮抗しながら、いままでにない相乗効果をもたらす。その公演はたちまち評判となり、数多くの観客を集めた(相倉久人『至高の日本ジャズ全史』、165-166頁)。

タモリが1970年代の新宿で再現したもの

山下洋輔(2013年C)Jimmy&Dena Katz山下洋輔=2013年 ©Jimmy&Dena Katz

 そして1970年代中盤、山下洋輔は、タモリとの出会いを果たす。それはまさに、偶然の出会いだった。

 演奏のため福岡を訪れていた山下は、その日ホテルの部屋でグループの仲間といつもの「アテレコ遊び」に興じていた。テレビの音を消し、適当なアテレコをするのである。そこに、部屋のドアがたまたま開いていたのをいいことに突然現れ、デタラメの韓国語をその場の誰よりも流暢に話し始めた奇妙な男がいた(山下洋輔『へらさけ犯科帳』、220頁)。

 それが当時福岡にいた森田一義、後のタモリである。東京に戻った山下は、その時の興奮を「ジャックの豆の木」で語って聞かせた。そして先述の通り、まだ「謎の男」にすぎなかったタモリを東京に呼ぶ会が結成されることになる。

 1975年、「ジャックの豆の木」に招かれたタモリは、その場で

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